大道行くべし。

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平成30年12月16日 大磯探訪・補足(歴史を受け継ぐということ)

※史料・碑文等から見えてくる「歴史の伝承」。

明治天皇の大磯御滞在、特に北浜海岸臨御中の出来事についてもう少し掘り下げてみたいと思います。

・まず、基礎史料である明治天皇紀』にはどのように書かれているでしょうか。

「九日 卯の半刻小田原行在所を發し、小八幡・梅澤兩村を經て、午の刻大磯驛に箸御、本陣小島才三郎の家を以て行在所に充てたまふ、内侍所は神明社に奉安す、午後、海岸に臨御あらせられ、供奉諸藩の兵隊をして射撃を試みしめたまふ、乃ち巖上の群鴉を以て目標とせしむ、衆、榮を競ひて之れを撃てども皆中らず、亂鴉紛々として飛び去り、頗る御興を添ふ、又漁夫をして地曳網を投ぜしめ、漁撈の實況を叡覧あらせらる、漁夫、潮水を數個の大桶に湛へ、獲る所の鱗介を之れに放ち、御座所の前に運搬す、天顔頗る喜色あり、酉の刻行在所に還御したまふ、仍りて供奉諸藩兵竝びに漁夫等に物を賜ひ其の勞を犒はせらる」(『明治天皇紀』第一) 

 

・次に王城山上の明治天皇観漁記念碑」

明治元年七月詔シテ江戸ヲ東京ト改稱シ親臨政ヲ視ルヘキ旨公布セラレ同九月廿日聖駕京都ヲ發シ十月九日大磯驛御駐蹕更ニ海濱ニ幸シテ扈駕兵士ノ射的ト町民ノ捕魚トヲ天覧アリ漁網ノ岩角ニ掛リシヲ外サントテ漁夫等カ水ニ出没スル姿態及ヒ捕獲セシ魚族の潑溂タル漁槽ヲ漁夫等カ一齊ニ聲ヲ立テ御前咫尺ニ運セ来ル有様ナト初テノ御觀漁ユヘ特ニ御興ニ入ラセ玉ヒ漁夫等ニモ下賜品アリ當時供奉員諸氏ノ日記皆ナ之ヲ載ス今謹テ石ニ勤シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ榮ヲ永ク後ニ傳フト云フ」

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※ここにある「當時供奉員諸氏ノ日記皆ナ之ヲ載ス」という一文が気になります。『明治天皇紀』大磯の記述の参考文献として「〇東巡日誌、帝室日誌、女房日誌、木戸孝允日記、押小路親日記、東京行幸供奉日記、東京行幸内侍所御守衛日誌、道中御用日記、加藤泰秋家記、御東幸御道中筋御休泊留帳」とあるので、これらのことを指すのでしょう。

 

・ではそのうち、木戸孝允日記』該当箇所を見てみたいと思います。

「六字出立此日北風甚梅澤にて小憩し十字大磯驛に至り木村屋善六方へ宿す柏木来り角打等用意の調し事を告けり二三丁磯の巖石上に鴉数十羽とまり居し故角打の前には小隊を揃へ齊發に狙撃を命せられし事を申立しなり十二字前 御着輦前件の趣を相公へ言上し三字過より大磯の濱邊へ被為 入供奉兵隊の隊長どもへ被命候て三丁距離位にて巖石上にむらがり居し鴉を打せ玉ふに齊發相とゝのわず一鳥の得獲なし雖然波上に乱射し鳥其間に飛散し餘程 御興に思食させられ其より角打をはじめ且海辺より漁子どもは網をいれ角打終りしころ濱辺へ引上しに種々魚網中にあり其網のはし潮底の巖頭にかゝりしを漁子〇體にて一人飛入はづせしところ数十人の漁子とも盡われも々々々飛入引揚け一の箱の中へ潮水を入魚をはなし一時聲をたてゝ 御簾の前咫尺へ〇體のまゝわれを忘れてかゝへまいり如此事を 天覧ましませしは今が御始めにてこれ又有のまゝの様を被為遊 御覧度との 思召にはからず相かなひ且又今日海辺へ被為入候御道筋のはたけを取除き御道に造りかけしを此 思召を申聞け三四丁も御廻り道にて海辺へ被為入候を小民ともまことによろこび有かたかり候」(『木戸孝允日記』一 明治元年十月九日条)

 

・次に、神明神社 御由緒」はどうか。

明治元年(1868年)九月二十日、明治天皇は初めて京都を出発、東京に行幸途中、十月九日小田原をたち、昼には大磯宿の小島本陣へお着きになりました。昼食後、時間もあり江戸も近くなりましたので、天皇の長い旅路をお慰めしようと、北浜海岸(海水浴場)で、沖の岩の上に群がっている、からすに向かって一斉射撃をさせましたが、一瞬呼吸があわず全部逃げ去られてしまいました。初めての事なのでとてもお喜びになられました。その後 角打(大砲)がはじめられ轟音をとどろかせました。そのころ、漁師が地引網を入れ、角打が終わった時、地引網を引き揚げはじめましたが、網が海底の岩に引っかかったので、漁師がわれも、われもと飛びこんで引き揚げました。この網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来ました。前代未聞のことなので、一同びっくりしましたが、天皇は人々の有のままの姿をご覧になりたいと思っていたので、非常にお喜びになられました

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(この文章を読むと、『木戸孝允日記』との類似点が随所にあり、同日記を参照したことは一目瞭然)

 

※上記の各記録をまとめると、明治天皇の北浜海岸臨御中の出来事として、以下のようなことがあったことが分かります。

沖の岩の上に群がっているカラスへ供奉諸藩兵による一斉射撃を試みた。

カラスには当たらず逃げ去ってしまった。

しかし天皇はその光景が面白くて夢中になった。

大砲の発射があった。

漁民の地引網をご覧になった。

網が海底の岩角に引っかかったのを数十人の漁民が我も我もと一斉に海に飛び込んで外した。

漁民が獲れた魚をたらいに入れて裸のまま天皇の御前に声を弾ませ運んできた。

天皇は漁民達のありのままの姿をとても夢中になって喜んでご覧になった。

供奉諸藩兵と漁民達へ労をねぎらい品物を賜った。

 

明治天皇木戸孝允、その他供奉員、そして大磯の庶民(漁民)にとって、この時の出来事は、賑やかでとても楽しく、平和で穏やかな一時だったと言えるのではないでしょうか。いずれの記録からも、そのような微笑ましい光景が脳裏に浮かんできて、ついつい顔がほころんでしまいます。

 

かつて大磯の海岸で明治天皇木戸孝允ら供奉員達と庶民との間で心温まる交流があったということを、先人達は複数の記録・碑文を通して今日の私達に伝えようとしているのです。伝承することの大切さ、素晴らしさを大磯の町に教えられたような気がします。

 

先人達の「謹テ石ニ勤シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ榮ヲ永ク後ニ傳フ」という願いを無駄にしてはなりません。我々も次の世代へこの平和の願いを繋いでいかなければと強く思いました。

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北浜海岸の「明治天皇観漁記念碑」と眺望。約150年前、ここで明治天皇と大磯漁民の間に心温まる交流があった。