大道行くべし。

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安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允

山口県下関市豊田町地吉の豊田湖の湖畔に、寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いに敗れた平氏一族と共に入水し、僅か8歳でその生涯を閉じた第81代安徳天皇の御陵墓とされる安徳天皇西市陵墓参考地」がある。「参考地」とされているのは、西日本の各地に安徳天皇の御陵墓とされるものがあり、そのうちの一つということである(下関市赤間神宮境内にある阿弥陀寺陵が、現在安徳天皇の公式の御陵墓とされている)。

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この地に何故か木戸孝允の詩碑が建っている。碑石は一見したところ、随分と苔むしてかなりの年月が経過している印象を受ける。

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碑の前にある解説板には次のように書かれている。

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ここから読み取れる情報として、

・木戸は実際に安徳天皇西市御陵墓を訪れている。

・木戸は明治8年に「光雲寺」に「とまって」漢詩を「残した」。

以上2点である。しかし、これだけだと説明不足は否めず、次々と疑問が湧いてくる。即ち、

・「木戸はいつ、安徳天皇西市御陵墓を訪れたのか(通過しただけなのか、参詣したのか)?」

・「『光雲寺』はどこにあるのか?」

・「木戸は明治8年のいつ『光雲寺』を訪れたのか?」

・「木戸が漢詩を詠み、揮毫したのも『光雲寺』か、それとも別の場所か?」

・「『光雲寺』に宿泊したのか否か(「泊まって」?「留まって」?)」

・「この詩碑がいつ、誰によって、どのような経緯で設置されたのか?」

等、細部が全く判然としない。よって、主にこれらの点について、史資料を用いながら事実を抽出し、更にそこから若干の考察を加えてみたい。

 

木戸孝允はいつ、安徳天皇西市御陵墓を訪れたのか?
木戸が召命を受けて京都の太政官に初めて出仕したのが明治元年正月25日(『松菊木戸公伝』上)。以降、明治期に木戸が山口へ帰郷したのは、確認が取れる限り大別して以下の5度である。

明治元年閏4月~5月(キリスト教徒問題処理のため長崎出張途次に立ち寄る)
② 明治2年12月~同3年5月(山口藩諸隊の新兵編入協議のため帰藩。~脱退騒動)
③ 明治3年12月~同4年1月(藩力動員、中央政府強化の協議のために帰藩)
④ 明治4年2月~同5月(山口藩兵の御親兵編入議決のため帰藩)
⑤ 明治7年7月~同8年1月(参議兼文部卿を辞任し帰県)

木戸が安徳天皇西市御陵墓を訪れる物理的機会があったのが、この5度の山口行ということだが、それぞれの時期の木戸の日記(『木戸孝允日記』)をチェックしてみたところ、
①~③には木戸が御陵墓を訪れたことを示唆する記事は見当たらなかった(=だからと言って木戸がこの時期に御陵墓を訪れなかったとも言い切れないが)。
④の時期であるが、明治4年4月28日、木戸が安徳天皇西市御陵墓の北東に位置する深川温泉(現在の長門市)に滞在中、日記に次のように記している。

 

今日朝数箋へ揮毫せり近作あり
 溪流卷巨石山岳半空横四月陵邊路唯聞杜宇聲
 一路傍溪水兩涯多碧山輕鞍曉來雨人在萬翠間
 不關名利事山水只繫思小窓山影落半庭水横馳門外無俗客東軒捲簾遅
 俯仰天地間誰禁意所随焼香又煎茶此樂 人知

 

安徳天皇西市陵墓参考地」に建つ木戸の詩碑と傍線部を比較すると、「寿永陵」「四月陵」「断腸」「唯聞」以外は同じであることが分かる。

また、『木戸孝允文書』八巻所収の「詩集」中にも、同時期のものと思われる「深川近作」と題した、上記と同様の漢詩三つが掲載されている。

 

    深 川 近 作
溪流卷巨石 山岳半空横
地吉陵邊路 唯聞杜宇聲
 轉句一曰四月陵邊路
    

    同
一路傍溪水 兩涯多碧山
輕鞍不愁雨 人在萬翠間
       
    同
不関名利事 山水只繫思
半畫山影落 中庭水横馳
門外無俗客 東軒捲簾遅
俯仰天地間 誰禁意所随
焼香又煎茶 此樂人不知

 

ここでは、日記での「四月陵」の部分が「地吉陵」となっている。
更に上記に続き、「地吉途上有感」と題した漢詩も掲載されている。

 

     地吉途上有感
渓流卷巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 断膓杜宇聲

 

ここでは、「地吉陵」の部分が「壽永陵」に変わっており、「安徳天皇西市陵墓参考地」の詩碑と全く同じと言ってよい。すなわち、木戸が山口の深川温泉に滞在していた明治4年4月の段階で、何度か推敲を重ね、「安徳天皇西市陵墓参考地」の詩碑の原型が完成したものと考えられる。
この深川温泉に来る直前の明治4年4月19日、木戸は西市にて宿泊しているので(『木戸孝允日記』二)、その際、安徳天皇西市御陵墓を訪れた可能性はある(日記では確認できない)。

 

次に、⑤の時期であるが、まず明治7年10月3日の日記によれば、地吉で昼食をとり、その後西市で宿泊しているため(『木戸孝允日記』三)、安徳天皇西市御陵墓を訪れている可能性はある(日記では確認できない)。
次に、明治7年11月14日であるが、この日の日記に木戸は「一字地吉に至り地吉の陵に参詣し」と記しており(『木戸孝允日記』三)、更に『松菊木戸公伝』下巻所収「木戸孝允公年譜」の明治7年11月13日条に「公、下関を発し途に安徳天皇の御陵を拝し十六日萩に至る」とあることから、明治7年11月14日に木戸が安徳天皇西市御陵墓を訪れ参詣しているのは確実と言える(調べた限り、木戸が訪れ参詣したことを示す唯一の史料)。

 

・下関⇔長門、萩方面を往復する道として、安徳天皇西市御陵墓の傍の道を(そこが安徳天皇陵と意識して)通過することは幕末以来度々あっただろうと思われる(この道は当時の主要道路。後述)。

明治4年4月、「地吉途上有感」と題した漢詩を揮毫(「安徳天皇西市陵墓参考地」の木戸詩碑の原型)。

・明治7年11月14日、安徳天皇西市御陵墓を参詣(この時以外にも参詣した可能性はあるが、特定できるのはこの日のみ)。

・しかし、木戸の日記、書簡、伝記等を調べる限り、「光雲寺」についての言及が一切ないため、「光雲寺」がどこにあり、木戸がいつ「光雲寺」を訪れたのかは判然としない。

 

●「光雲寺」はどこにあるのか?
では次に、「光雲寺」の場所は一体どこなのかという問題であるが、「安徳天皇西市陵墓参考地」の所在地、豊田町の町史を纏めた『豊田町史』(豊田町史編纂委員会編 豊田町 1979年3月)を調べてみたところ、「安徳天皇西市陵墓参考地」に関して1章を割いて解説されている。その章末に、次のような一文がある。

 

   渓流捲巨石   山岳半空横
   寿永陵辺路   断腸杜宇声
     地吉途中    松菊生
 これは明治初年、木戸孝允が地吉の里を通り、王居止陵に詣でたときの詩である。地吉光雲寺に納めてあったが、豊田湖底になったので現在は楢原の正念寺に所蔵している。

 

現在ある豊田湖とは自然湖ではなく、人口のダム湖であり、それを造成する時に地吉の光雲寺はダムの底に沈んでしまったということであり、これは盲点であった。同じく『豊田町史』所収の「近世豊浦郡交通図」によれば、安徳帝陵のすぐ南、地吉村の茶屋ヶ原という所に「光雲寺」を確認できる。光雲寺の前を通る道は「北海道」(ほっかいみち)と呼び、豊田地方の「最も主要な道路」だったようだ。その為、光雲寺はかつて主要道路に面した著名な寺院だったのかもしれない。
それでは、「楢原の正念寺」とは現存するのか?『豊田町史』に次のようにある。

 

諏訪山 正念寺 朝倉兵庫頭の臣甲斐修理という武士が出家して法名を正清と称し、寛永二年(一六二五)に浄土真宗本願寺派一宇を建立したのが当寺の起源である。後代に至って寺運衰微して廃寺同様になったことも度々あったようである。
このような状態のときに、西市中野家の中野半右衛門景林が、その晩年の寛政二年(一七九〇)十一月五十八才の時落飾出家して正念寺を建立し、自ら初代住職となったが、翌三年九月五十九才で死去した。正念寺の経営未だ確立しないうち早く病没し残念であったが、以来ようやく寺基は確立した。昭和二十九年八月十日、地吉の光雲寺が豊田湖造成のため廃絶して、楢原正念寺と合併し諏訪山正念寺として現在にいたっている。

 

現在も山口県下関市豊田町大字楢原に正念寺は確かに存在しており、『豊田町史』に従えば、昭和29年豊田湖造成に伴い廃絶(水没)する光雲寺と合併し、その際木戸の漢詩も引き継ぎ所蔵することとなったらしい。

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●木戸は明治8年のいつ「光雲寺」を訪れたのか?
確かに光雲寺は昭和29年まで安徳天皇西市御陵墓の近在に存在していたことが分かった。では、詩碑の解説板にある通り、木戸は明治8年に光雲寺を訪れたのであろうか。言い換えれば、明治8年に木戸が山口県の地吉にある光雲寺を訪れることは物理的に可能だったのだろうか。

と言うのも、明治8年明治維新史上重大な年であり、その中心的役割を担う一人であった木戸が東京を離れることは極めて困難であったと言わざるを得ない。敢えて言うならば、参議兼文部卿を辞任し、明治7年7月から山口県滞在中であった木戸が、大阪で大久保利通板垣退助等と会うため(後に言う「大阪会議」)下関を出港したのが明治8年1月4日。つまり、木戸が明治8年山口県に居たのは、(『木戸孝允日記』、『松菊木戸公伝』を確認する限り)1月1日~4日の4日間に過ぎない。この4日間にしても、日記を見る限り、下関で新年を迎え、続々とくる訪問客の対応、亀山八幡宮への参詣、對帆楼での酒宴(1日)、人との面会、依頼されていた数十箋に及ぶ揮毫、来客への対応等(2日)、暇乞いの訪問、別杯の酒宴(3日)、4日は朝7時に乗艦し出発。以上、木戸が地吉の光雲寺を訪れる余地は全くないと言ってよい。その後も、

・1月〜2月→大阪にて大久保、板垣等と会談(「大阪会議」)。

・2月→東京へ戻り太政官の参議に復帰。

・3月~4月→制度改革に勤しむ。

・4月→左院右院を廃止し元老院大審院を設置。

・6月→地方官会議議長に任ぜられる。

・6月〜8月→同会議を主導。

・10月→朝鮮使節に内定。

・11月→脳病に罹り左足麻痺し歩行不能状態となる。

等、多忙を極めた末、体調を崩してその年は暮れている。その後も明治天皇行幸の供奉で東北や奈良・京阪、或いは療養のため箱根等を訪れることはあっても山口へ帰郷することはなく、明治10年5月、京都で生涯を終えている(『松菊木戸公伝』下巻所収「木戸孝允公年譜」より)。

結論として、明治8年以降に木戸が山口県地吉の光雲寺を訪れることは不可能と言ってよい。

 

●西市中野家と木戸孝允
木戸が安徳天皇西市御陵墓を参詣し(御陵墓の傍の道を度々通り)、漢詩を詠み、揮毫したことは紛れもない事実である。また、光雲寺にかつて木戸の漢詩が所蔵されていたことも紛れもない事実である。しかし、調べた限りにおいて木戸が光雲寺を訪れた形跡がないため、この二つの事実が一本の線として繋がらないのである。

可能性として、木戸は光雲寺を訪れたがそのことを日記に書かなかったか、そもそも光雲寺を訪れなかったか、のどちらかであろうが、仮に訪れていなかったとすれば、木戸と光雲寺の間に何らかの介在する人物が居たということである。そしてそれが、西市の中野家ではなかったかと個人的には考える。
木戸の漢詩が納められていた光雲寺が、昭和29年豊田湖造成時に水没する時、正念寺に吸収合併されることによって漢詩も同寺に引き継がれた。その正念寺の創設者は中野半右衛門景林である。
そう言えば、木戸が西市を訪れる時、決まって訪問、宿泊する所も「中野」家である。木戸と中野家の幕末以来の繋がりが見られ、親密な関係性が垣間見られる。

 

木戸孝允日記』より。
・明治4年4月19日条
「八字過西市に至り中野半左衛門之宅に泊す夜一家内出酒飯をすゝむ七年前余此家に泊せる事あり」

・同年4月20日条
「朝書を認め靑甫の叔母   來る一家相集談笑一字頃相發す今日半左衛門の孫寬二郎を余養育せんと欲し父源藏に相約す寬二郎は歳纔四」

・同年4月21日条
「中野十一見舞に來る兄源藏の書状持参寬二郎母手を離し他に出すを難し源藏も尤困窮せしよし也」

・同年4月24日条
「西市中野源藏等來る」

・明治7年10月3日条
「地吉にて中食を認む四字過西市に至り中野源藏宅に泊す地吉より腹痛にて甚難儀せり至暮漸治せり」

・同年10月4日条
「雨中野へ淹留~略~主人源藏父半左衛門當春死去せり彼は十年來の知人曾て當村より豊田川の通船を二十餘年苦配して終に開せりまた徳地川の通船も開けり伊勢近藤皆爲左衛門に歌あり余も亦一詠を其末に認めり
 去歳の春逢にし人は空くていさをしのみを語るけふかな」

・同年11月13日条
「六字五十分西市に至り中野源藏方へ泊す」

・同年11月14日条
「晴十一字前中野を發し一字地吉に至り地吉の陵に参詣し二字頃八幡臺に至る于時雨降る三字木津に至り福山東一方にて中食を認む(東一は中野源藏弟なり)

 

木戸は少なくとも幕末期、文久・元治頃から西市中野家を訪れ、当主半左衛門と懇意にしており、息子の源蔵、十一兄弟とも親密で、源蔵の息子である寛二郎を養子に迎えようとまでしている。
この中野家の人々と正念寺の創設者中野半右衛門景林は血縁者ではなかろうか?吉田祥朔『増補近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976)の「中野」姓を調べた結果、半右衛門景林は見当たらなかったものの、「中野源蔵」「中野半左衛門」が掲載されていた。

 

「ナカノゲンゾー 中野源藏 中野源藏名は景徳字は子徳、通称源藏(一に玄藏)長嘯また豊臺と号す、その先孫七郎の時より代々豊浦郡西市の長正寺に居り邑の里正たり、源藏学識徳行あり、屢々公共の事に力を效し輿望を負う、性文雅を愛し博く藩内外の名家と相識る、その学は主として藩儒片山鳳翩に負う所あるが如し文政十三年七月四日歿す、年七十四。遺著に筑紫紀行(文化五年)遊京録(同八年)遊京雑記(文政五年)及び豊台詩稿等あり、源藏深く真宗に帰依してその地に西念寺を建立す、また嘗て浄土宗乗の専修念仏要語、日課念仏勧導記二書の所説を論難して専修念仏自得抄(文化八年)朝霞辨(同十三年)及び涅不緇辨(文化十四年)を著わし大日比西円寺法洲と論駁を重ねたり」

 

「ナカノハンザエモン 中野半左衛門 名は景郷、中野源藏の孫にて世職を継ぎ大庄屋格たり、天資材器あり頗る業務に練達して萩藩の勧農及び産物方を勤め殊に捕鯨交易等の公務に斡旋して功労あり、また豊田川の浚渫(嘉永六年)并びに佐波(安政六年)厚狭(明治三年)二川の水路を開き舟楫を便にしたる功績あり、明治七年二月十三日歿、年七十一。遺著に日記数十巻あり」

 

西市中野家は中野孫七郎を祖とし、代々西市一帯の「里正」、「大庄屋格」だったようだ。ここに掲載されている「中野半左衛門」は、間違いなく木戸の知り合いの中野半左衛門であろう。また、中野源蔵は、没年が文政13年(1830)であることから木戸の知り合いの源蔵ではなく、彼と同姓同名の曽祖父(中野半左衛門の祖父)であることが分かった。
更に、諸文献により、やはり中野半右衛門景林は西市中野家と血縁関係にあることが分かった。即ち、半右衛門景林は西市中野家の5代目であり、源蔵景徳の父、半左衛門景郷の曽祖父、木戸の知り合いの源蔵(源三景宜)から見て高祖父にあたる人物である。

 

・現段階で判明していることを図にまとめた。

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※『豊田町史』、『木戸孝允日記』、『増補近世防長人名辞典』他、田中鉱蔵「江戸末期における通船事業―中野半左衛門を中心に―」(『山口県地方史研究』9号 1963年)、藤井善門「中野半左衛門の活動と勤王志士」(『山口県地方史研究』20号 1968年)、田村哲夫「<史料紹介>菊舎尼の新書簡―豊田町西市中野家所蔵―」(『山口県地方史研究』32号 1974年)を基に作成。

 

●総括
江戸時代中期から続く西市や地吉等一帯の有力者である西市中野家。その8代目中野半左衛門景郷、9代目中野源三景宜・十一兄弟と極めて親しい間柄の木戸が安徳天皇西市御陵墓を訪れ、漢詩を詠み、揮毫し、それが直接か間接か、何らかの形で光雲寺へ奉納された。その木戸の漢詩が、時を経て、昭和29年同寺廃絶による散逸を免れ、正念寺に引き継がれて所蔵された。その正念寺を創建したのが、木戸が懇意にしていた西市中野家の5代目中野半右衛門景林であるという事実に、不思議な縁を感じざるを得ない。

西市中野家と安徳天皇西市御陵墓や光雲寺がどのような関係性にあったのか、現在のところ判然としない。木戸の漢詩を巡って何らかの支援や介在があったのではと想像するのであるが、それを論じるための史資料に当たれていないため、改めて後考を期すこととしたい。

(その他残された課題)
・木戸は光雲寺を訪れなかったのか?
・光雲寺の由緒
・光雲寺と正念寺の合併の経緯
・木戸の詩碑が安徳天皇西市御陵墓に設置された経緯

これらも引き続き調査・検討していきたい。