補遺②:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允
令和元年7月4日、山口県下関市豊田町の安徳天皇西市陵墓参考地を再訪した。その結果、以前より考察を進めてきた次の3点について若干の進展が見られたためここにご報告する。
●安徳天皇西市陵墓参考地にある木戸孝允詩碑設置の経緯
●詩碑の基となった木戸孝允の五言絶句はいつ、どこで揮毫されたものか(木戸は光雲寺を訪れたのか)
●明治初年における木戸孝允と西市中野家の関係性
(※今回、明治から昭和にかけ、これらに関わった方々の御子孫・ご家族の方々とお会いすることができ、且ご教示を頂き、実に様々な示唆を得ることができた。皆様に感謝の意を表します)
① 木戸孝允詩碑設置の経緯
〇まず、『豊田町史』所収「豊田町史年表」より、関連項目を以下に抜粋する。
※寿永4年に安徳天皇が(真実はどうあれ日本各地に残る伝承の一つとして)地吉の地に葬られ、それから長い年月(約700年)が経過し、安徳天皇陵墓「見込地」→同「伝説地」→同「参考地」と名称の変遷があり、昭和2年に「安徳天皇西市陵墓参考地」と定まり現在に至る。
そして日米開戦の前年、昭和15年に木屋川ダム工事が始まり、敗戦後の物資不足のため一時中止を経て、完成したのが昭和29年。紆余曲折の末、15年の歳月を要し完成した木屋川ダム。
そして翌年、そこに設置された木戸孝允の詩碑。これが何故設置されたのか。それは、ここが安徳天皇の眠る伝承地であり、そしてここを維新の元勲・木戸孝允が訪れたという歴史的出来事が、これを記念するモニュメントとして如何にも相応しかったからではないか。
〇山口県文書館所蔵、豊田町史蹟文化研究会編『王居止安徳天皇陵に関する資料』(豊田町史蹟文化研究会 昭和34年3月31日)に次のような一文がある。
・「昭和二十九年ダム湛水紀念の一として八百年間殆ど世に知られざる王居止御陵一部が関係しているので時の知事小沢太郎氏の好意で〜」木戸孝允詩碑が建てられた(P.26)。
・「丈余の自然石で出来た木戸孝允公の詩碑」(P.29)
〇豊田町文化協会編『三豊・西市地区資料』(豊田町文化協会 1996年)には、木戸孝允詩碑について「御陵前広場に地元郷土史家小林隆一氏の斡旋で県費で建立されたもの」とある。
ここで、前々回のブログ(補遺:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允)で紹介した詩碑側面に刻まれた文字、とりわけ3人の名前に着目したい。
・一人は上記に挙げた郷土史家・小林隆一氏。
・一人は神崎弥介氏。この方は現在まで約50年間、宮内庁の委託で安徳天皇西市御陵墓の守部をしてこられた神崎政徳氏の父(政徳氏より直接確認)。
・もう一人は能埜吾一氏。この方は現在、木戸孝允の漢詩書を所蔵する諏訪山正念寺ご住職能埜氏の祖父に当たる方。当時は光雲寺住職(現住職の能埜氏に確認)。
※詩碑設置の経緯
豊田町の郷土史家、小林隆一氏が安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允に纏わる歴史を調査し、そこに関わる御陵墓守部の神崎弥介氏・光雲寺住職の能埜吾一氏と小沢太郎山口県知事の間を小林氏が斡旋し、昭和30年4月、木屋川ダム竣工のモニュメントとして県費により丈余の自然石で木戸孝允詩碑(地吉近在の石材商に依頼=現住職能埜氏父より)を作成・設置したということが考えられる。
(キーパーソンとも言える小林隆一氏の著作等あれば確認したかったのだが、詳細は分からなかった)
② 木戸孝允はいつ、どこで漢詩を揮毫し、どのような経緯で光雲寺へ納められたのか
詩碑の解説板等にあるように、木戸が明治8年に光雲寺に宿泊し、漢詩を奉納したのは事実なのか。これまで何度もブログで考察してきた問題の核心であるが、いずれも出典が不明で且断片的なものばかりで決め手に欠ける。何よりも木戸自身がはっきりこのことに関して言及したものを残していないためだ。調べた限り、確認できるのは以下の事柄である。
・木戸が漢詩の原型を揮毫したのは明治4年4月28日深川にて(その後推敲を重ねた形跡あり)。
・石碑にあるような、明治年間に木戸が光雲寺に宿泊したという事実は一次史料からは確認できない。まして明治8年(5月2日)は不可能(木戸は東京に居る)。
・一次史料を確認する限り、明治年間に木戸が西市に立ち寄った際(3回)に宿泊したのは全て長正司の中野家であって光雲寺ではない。
・木屋川ダムの無かった当時、安徳天皇西市御陵墓、光雲寺の前の道を幕末以来何度も木戸は通り、萩⇔下関を往復していたと思われる。
・光雲寺と安徳天皇西市御陵墓、光雲寺と長州藩には、それぞれ強い結びつきが見られる。
・明治7年11月14日、木戸は安徳天皇西市御陵墓を参詣している。
〇山口県文書館所蔵、豊田町史蹟文化研究会編『王居止安徳天皇陵に関する資料』(豊田町史蹟文化研究会 昭和34年3月31日)に気になる一文がある。
「就中木戸公二回目ノ来泊即チ明治八年乙亥五月二日、王居止御陵墓ヨリ当寺ニ至ル沿道ノ風景ヲ輿中ヨリ眺望シツゝ次ノ五絶句ヲ残サル」(P.30)
※前段の「明治八年乙亥五月二日」は、上記にもあるように木戸は東京に居たため物理的に不可能。後段の「王居止御陵墓ヨリ当寺ニ至ル沿道ノ風景ヲ輿中ヨリ眺望シツゝ」、ここには2つの示唆があり、まず、この時木戸が辿ったのが御陵墓から光雲寺=北から南下する道中だったということ。もう一つは木戸が「輿」に乗っていたということ。
明治期における木戸の3度の西市訪問のうち、北から南下してきたのは明治7年10月3日の訪問時のみ。この日の木戸の日記には次のようにある。
「曇糸賀及大田夫妻一同歸萩大寧寺泰成和尚其外暇乞に来るもの多々九字前出立地吉にて中食を認む四字過西市に至り中野源三宅に泊す地吉より腹痛にて甚難儀せり至暮漸治せり」
萩から南下して地吉に至り昼食を摂っているが、この場所が光雲寺である可能性はあろう。更に、この日腹痛を起こす程の体調不良から「輿」に乗っていたのかも知れず、そうであれば上記と符合する(漢詩中の「断腸杜宇聲」も、どことなく「腹痛」を想起させるものがある)。
→明治7年10月3日に光雲寺へ立ち寄り、漢詩を奉納した?(但し、上記文献の典拠が一体何なのか確認しておきたいところ)
③ 木戸孝允と西市長正司中野家
木戸が西市に立ち寄った際、必ず中野家へ宿泊しているという事実から、この問題を考える時、個人的には西市の大庄屋である中野家が鍵を握っていると思えてくる。今回、諏訪山正念寺住職の能埜氏と再びお会いすることが叶い、更に能埜氏の紹介で長正司中野家現当主である中野景治氏ともお会いすることができ、色々とお話を伺う中で、以下の事実が判明した。
・「中野寛二郎」のこと
木戸が養子に欲しいと言っていた「中野寛二郎」(『木戸孝允日記』明治4年4月20日条)は、正しくは中野寛九郎という。彼は明治8年に8歳で早世しているとのことだった。母親の中野源三夫人(美祢出身)が養子に出すことを反対していた(『木戸孝允日記』明治4年4月21日条)のは体が弱かった為かもしれない。いずれにしても幼くして亡くなっていたことを知り、何とも無念である。
・中野家10代目当主について
中野家10代目当主、即ち9代目中野源三の跡継ぎは中野魯一氏。元治元年6月4日生まれ。明治18年8月21日、22歳で亡くなっている。
・「中野十一(福山東一)」について
9代目当主中野源三の弟。木戸は明治4年には彼のことを「中野十一」と記しているが、明治7年には「福山東一」となっている(『木戸孝允日記』)。即ちこの間に福山家へ養子に入ったと思われる。
→嘉永3年4月5日生まれ。本名を東一郎といい、長門大津郡俵山の福山文右衛門の養子となり、「福山東一郎」となった。
・中野家所蔵の木戸孝允書
木戸孝允が中野家に遺していった書二幅を拝見させて頂いた。
青山流水重楼
せいざんりゅうすいじゅうろう
辛未四月
為忘庵
中野翁
松菊狂生
※(訳)青々と生い茂った山と川のせせらぎとそびえる楼閣
明治四年四月
中野(半左衛門)翁の庵を称えて
清流廻戸外
せいりゅうこがいをめぐり
四壁皆青山
しへきみなせいざん
聴水思琴瑟
みずをきくにきんしつをおもい
對雲忘世間
くもにむかいてはせけんをわするる
※(訳)清流は戸外を廻っており、四方は樹木の生い茂った山々が取り囲んでいる。川のせせらぎを聴けば自然と相和して心地良く、雲を眺めると世間のしがらみを忘れてしまうようだ。
この書、実は『木戸孝允文書』八に収録されている。それによると明治2年箱根滞在時に作られた作品で「木香山中之作」と題名が付されている(「木香」とは、箱根における木戸の常宿「亀屋」のあった木賀のことと思われる)。それが、理由は分からないが中野家に所蔵されている。
これらを目にすると、やはり木戸は書をこよなく愛し、親しい人々に揮毫しては贈呈していたことがよく分かる。安徳天皇西市御陵墓に関する漢詩書も、もしかしたら中野家で揮毫し、光雲寺へ奉納するよう中野家へ託したのではないかとの思いがするのである。
※以上、3つの観点から考察を試みた結果、木戸孝允の漢詩書が光雲寺に納められた経緯について、以下3つの可能性を提示し、今回は筆を置くこととしたい。
1:明治期における3度(4年4月、7年10月、同年11月)の中野家訪問のいずれかで木戸は漢詩を揮毫し中野家が代理で光雲寺へ奉納した。
2:明治7年10月3日、木戸は萩から南下途次、地吉光雲寺に立ち寄り昼食を摂り、この時直接漢詩書を奉納した。
3:明治7年11月14日、木戸は安徳天皇西市御陵墓参詣の折、御陵墓経由で光雲寺へ漢詩書を奉納した。
※今回、中野景治氏のお話を基に改めて中野家系図を修正したのでここに再録しておく。