大道行くべし。

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廣戸直蔵著「木戸孝允公出石町潜伏中の略記」について(前編)

桂小五郎(木戸孝允)の禁門の変後の出石における潜伏生活を調べるにあたって、まず手に取るべき基礎史料は何かと言えば、それは廣戸正蔵編『維新史蹟但馬出石に隠れたる木戸松菊公遺芳集』(出石郡教育会 昭和7年)であり、とりわけ同書所収の「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記(公の薨後父直蔵識之)」が参考になると思います。

では、廣戸直蔵が著したという「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記」とは何か。

 

2006年1月、廣戸家から京都の霊山歴史館へ刀や写真など約200点が寄贈されており、その中から『木戸孝允公出石潜伏中之記』が発見されている。これは、桂小五郎(木戸孝允)が元治元年禁門の変に敗れた後に但馬国の出石で暮らした約1年間の潜伏生活を中心に描かれた書物で、著者は廣戸直蔵である。2007年春、霊山歴史館で春季特別展「桂小五郎と幾松」が開催され、『木戸孝允公出石潜伏中之記』も展示・公開されている(行きたかった!)。

 

この『木戸孝允公出石潜伏中之記』こそ、「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記」の原典史料と考えます。

そこで今回は、『維新史蹟但馬出石に隠れたる木戸松菊公遺芳集』所収の「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記(公の薨後父直蔵識之)」を現代語に改めた上で書き起こしてみました(長文となるため前後編に分けました)。また、これと前回のブログであげた「鍋屋孝助傳」を比較してみるのも面白いと思います。

 

それでは、木戸が出石に逃れ約9か月の潜伏生活の末出石を出立するまでを描いた前編をどうぞ!

(※文中の「公」は木戸孝允のことです)

 

贈正二位内閣顧問勳一等

木戸孝允出石町潜伏中の略記

                (公の薨後父直蔵識之)

 

公、本姓は和田小五郎と称す。幼くして桂氏の養子となったため桂小五郎と称す。元治元年、公は京都河原町対馬藩邸におり、廣戸甚助も志すところがあって対馬藩邸の多田荘蔵のもとにおり、そのため公と親密であった。7月の禁門の変後、公は甚助のことを侠気ある人物と見込み、彼の本国但馬に遁れ、時節到来を待ちたいと甚助に説いた。甚助は公の厚い勤王の志を感じ、ただちに承諾した。その夜すぐに公の装束を但馬国の船頭姿に変え、ひそかに京都を抜け出し、道すがら諸藩の関門を通過する毎に「但馬国伊含村卯左衛門」と名乗った。こうして丹波を過ぎ、但馬国境の久畑村の関門に差しかかった時、甚助は(公の乗る)かごに遅れること2.3丁辺りにいた。かごが関門に達し、関吏の尋問に対し公は口ごもってしまい、関吏は公の挙動を疑い、益々公へ詰問し、今にも捕縛する勢いであった。そこへ甚助が遅れてやってきてこの有様を見、「この男は当国伊含村の者で、大阪で病気になり、私の雇船の船頭であるから連れ帰るところである!」と声を張り上げて言った。出石出身である甚助とは関吏も面識があり、そのためこれ以上疑わず、「お前が言ったことは間違いないだろう。よし」と通行を許可した。ようやく虎口を逃れて出石に着き、これまでの経緯を弟の直蔵に謀った。直蔵は父の跡取りであるが、以前、江戸に行く途中京都に寄り、公とは既に面識があったため、ただちにこれを快諾し、廣戸家の旦那寺である昌念寺に(公を)匿った。禁門の変後、長州人で方々へ潜んでいる者は多く、そのため会津藩士が出石に来るごとに直蔵たちは公を養父市場の西念寺に移した。同村に料理稼業の大塚屋新平という者がおり、公の容貌を見て凡人ではないことを察し、礼遇はすこぶる懇切であった。公もこれを喜んでおられた。その後、或いは出石町寡婦の家に匿ったり、或いは時として世間の疑惑を晴らすため湯島村の温泉に浸かり、世人の注目を憚って故意に女主人である松本屋へ宿泊したりした。同家に「たき」という娘がいて、公の境遇を悟り手厚く親切にお世話をした。このように過ごしながら、少しずつ甚助と直蔵は両親を諭し、(公を)廣戸家へ引き取った。これより公と(甚助・直蔵の父)喜七は本当の親子のように篤く情愛を通い合わせた。その後、親戚の志水重兵衛の周旋により、藩主の許可を得て宵田町に家を借りて廣戸家の別家とし、ようやく表向きに出石町に居住できるようになった。商売なくして町家で居住することは難しく、そこで、申し訳程度の荒物屋を開店した。公は秘密が露見することを恐れ、他人を雇い入れることを嫌がったため、直蔵の妹の八重に身の回りのお世話をさせた。公は控えめで慎ましく普段から行儀正しく凡人ならざるところがあり、人が一たび公を見ると自然と敬礼してしまうようなところがあった。甚助と直蔵は常に公が余りに広く交際するため、万一にも事が露見することを恐れた。公も兄弟の心配を悟り、その後は大に交際を慎むようになった。出石藩士の堀田反爾は(木戸の)昌念寺での囲碁仲間である。その他に志水重兵衛、大橋、蘆田、小幡のみで、皆懇切な交際をした。公の潜伏中、水戸藩では武田耕雲斎が捕まり、長州では俗論党の三家老の他数名を処刑し、尚その上削封の風評が専らであり、それを耳にするたびに(公は)憂え悲しみ嘆息していた。ところで、甚助は公を直蔵に託し、自身はしばしば長州や対馬及び京阪の間を往来して形勢を窺い、且つ公の密命を帯びていた。公は直蔵にすすめて「天下の形勢は今日の如し。この先どのようなことになるか分からない。ゆくゆくは酒造を業として長州から塩を輸入し、一手に隣国に売りさばこう」と語った。公の意中はいたずらに金儲けをすることが目的ではなく、長州の船舶を間断なく停泊させておき、一朝事ある時に用いるためとする計算であった。そのうち、慶応元年正月となった。出石の正月には「賭博の遊戯」をして楽しむ風習があり、公も子供を集めて花札をして心を慰めていた。ただし、決してお金をみだりに賭けて楽しんだということではなく、勝ち負けに関わらず子供たちに平等にお菓子を与えて喜ぶ姿を見て楽しみにしていた。そのため近隣の子供たちも皆先を争って公の元に行くのを楽しみにしていた。ある書籍には、公は潜伏中、博徒・酒客の中に身を置いていたために人に露見することがなかったとあるが、事実はすなわち前述の通りで、決して行儀作法を乱すような人ではない。従って「博徒の仲間云々」は誤りである。また、翠香院こと幾松君は禁門の変後ただちに対馬藩士に連れられて公の本国長州に行き危難を逃れている。慶応元年2月、(幾松は)廣戸甚助に連れられ出石に来て公と同棲している。公が出石に潜伏していることを長州人の中で知っている者は稀であり、村田蔵六公と伊藤博文公のみである。この時長州では俗論党が滅亡して公の党派が政権を握ったと聞くに及び、公は意を決し、(慶応元年)4月8日に出石を発足した。甚助と直蔵が付き従って長州まで公を送った。公が出石を出発するにあたって、喜七及び直蔵の姉妹らは皆別れを惜しみ、出石町から一里余りの和屋村近辺まで見送り、互いに涙を流しての別れであった。公はなおも名残を惜しみ、道中の宿所から直蔵の父喜七へ手紙を送ること再三にわたり、文中頗る真心がこもっていた。

 

・著者は廣戸直蔵なのですが、文中、直蔵自身も三人称で記されているのは何故か?編者の廣戸正蔵の手が加わっているのかもしれない。

 

・木戸が船頭に変装した時の名前を、甚助は「宇右衛門」(「鍋屋孝助傳」)、直蔵は「卯左衛門」としている。どっちが本当なのだろう?

 

・木戸が久畑の関所を通りかかった時、直蔵は不在だったにも関わらず、これ程詳細に、しかも「鍋屋孝助傳」とほぼ同じ内容が描かれているということは、後々まで直蔵が木戸や甚助と会うたびにこの時のことが話題に上がったのかも知れない。

 

養父市場の西念寺近くの料理屋、大塚屋新平の木戸に対する印象(「公ノ容貌ヲ見テ凡人ニ非ザルヲ察シ禮遇頗ル懇切ナリ」)や、廣戸兄弟が垣間見た木戸の寛大な性質(「公謙遜身ヲ持シ素行儀正シク凡人ナラザルヲ以テ人一度公ヲ見レバ敬禮盡サヾルナシ」)は、木戸孝允という人物の一端を表していて興味深い。

 

・木戸がある時期匿われたという「出石町寡婦ノ家」とはどこなのだろう?その場所を示す石碑等は存在しない。

 

・城崎の松本屋の娘「たき」と木戸のエピソードに関し、甚助と直蔵では表現が大きく異なる。

甚助→「慶應元年二月孝助竹次郎ト同ジク城崎温泉ニ浴シ御所松本屋ニ寓スルコト五週間餘竹次郎其女ニ通ズ姙ムアリ彼遂ニ流産ス」(「鍋屋孝助傳」※竹次郎=木戸の変名)。

直蔵→「湯島村ノ温泉ニ浴シ世人ノ注目ヲ憚リテ殊更ニ女戸主ナル松本屋方ヘ宿泊ス同家ニ一娘アリたきト言フ公ノ境遇ヲ悟リ頗ル懇篤ナリシ

※直蔵がオブラートに包んで穏やかに表現しているのに対し、甚助は直球ストレートな表現なのが面白い。それぞれの性格が垣間見える。(それにしても、松本屋たきの妊娠、流産は本当なのかどうか?)

 

・木戸と廣戸兄弟の父喜七が本当の親子のように交際したというのも微笑ましくていいなあ(「徐々両親ニ諭シ我家ニ引取ル是ヨリ公ト喜七トハ眞ノ親子ノ如ク愛情互ニ篤シ」)。

 

・甚助が幾松を出石に連れてくる際、賭博をして路銀を使い果たし逐電してしまうという有名なエピソードがこれにも「鍋屋孝助傳」にも出てこない。もしかして創作の可能性も?

 

 

後編に続く。