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廣戸甚助伝記「鍋屋孝助傳」について

「鍋屋孝助」とは、元治元年(1864)禁門の変に敗れた木戸孝允(=桂小五郎)を助け、郷里の但馬国出石まで連れ帰り匿った、言わば木戸の命の恩人とも言える人物で、本名を「廣戸甚助」と言います。しかしながら彼の生涯は謎に包まれており、木戸と知り合う前はどこで何をしていたのか、木戸の死後はどのように生き、どこで生涯を終えたのかよく分かっていません。この「鍋屋孝助傳」は唯一と言ってよい廣戸甚助の伝記であり、その意味では大変貴重な史料だと思います。

 

「鍋屋孝助傳」の出典は廣戸正蔵編『維新史蹟但馬出石に隠れたる 木戸松菊公遺芳集』(出石郡教育会 昭和7年)。出石出身の明治期の政治家・櫻井勉が著したもの(廣戸甚助が人に語ったものを櫻井が文章化した)で、櫻井氏が執筆した原稿用紙そのまま掲載され翻刻はされていません。その為、正直なところ読みづらいです。

 

上記の理由から「鍋屋孝助傳」の存在は知りながらも未読のままだったのですが、たまたま手にした、廣戸正蔵編『木戸公遺蹟久畑の関碑記念帖』(出石郡教育会 昭和6年)という非売品の冊子に「鍋屋孝助傳」の翻刻文が掲載されていたのです!

 

そこで今回、試みとしてこの翻刻文を現代語に訳して書き起こしてみました。多少、解釈が原文と違っている箇所があるかもしれませんが、その点ご了承下さい。

 

それではどうぞ!

 

鍋屋孝助傳

孝助、本姓は廣江、鍋屋と称す。父を喜七と言う。但馬出石の人なり。幼い頃から自由気ままで飲酒と博打に明け暮れ、家業には見向きもしなかった。藩吏がまさに孝助を捕えようとした時、孝助は逃れて京都に入り対馬藩留守居役・多田荘蔵の家に仕えるようになった。同藩士に林竹次郎という者があり、人となりに優れ才能があり、特に孝助を可愛がった。ある日、竹次郎は但馬国の地図を描き、詳しい出石の形勢を孝助に問い、孝助はおもむろに次のように答えた。「この地は京都に近く慎み深く静かな所ですので、世間から逃れ隠れるには便利な地だと思います」。竹次郎は笑って「私がもし追われる身となり出石に行ったなら、お前は私を庇ってくれるか?」と尋ねたところ、孝助は笑って承諾した。竹次郎は以来、特に孝助に目をかけ密事をも委ねるようになり、且つ、「私は実に長州藩士・桂小五郎である」と、氏素性まで打ち明けた。元治元年、長州藩兵が京都に挙兵する前夜、竹次郎は孝助を使って弾薬を因幡藩松田正人の家に届けさせた。次の日、事(禁門の変)が起こり、孝助は松田正人邸へ駆け付けたが人気はなく、転じて因幡藩邸に入ると、兵士が満ち溢れており、孝助は逃げ帰って対馬藩邸へ潜伏し外へ出ようとしなかった。夜になって孝助の名を呼ぶ者があったが孝助は益々潜んで敢えて会おうとはしなかった。数日後、今度は芸妓幾松の母が夜になって孝助のもとへ来訪した。幾松は三本木の難波常次郎の養女にして常に竹次郎に贔屓にされていた者である。幾松の母が言うには、連夜、人を使って孝助を招こうとしたが孝助は面会しようとしなかった。そこで、幾松の母自身が訪ねて、孝助に頼みたいのは孝助の主君である桂小五郎を救ってほしい一心であると告げると、孝助は目を輝かせて「林さんは無事でしょうか?」と尋ね、幾松母は「主君が無事であるからこそこうして訪ねてきたのです」と。孝助はやっと袖を通して外に出、幾松母の導きで二条今出川通り河東のあばら家へ入った。季節は残暑厳しく、家は狭く室内にむしろを被って横になっている者がいた。孝助の聞き覚えのある声を聞いておもむろに彼の前にその面を現したのは竹次郎=桂小五郎その人だった。竹次郎は声を潜めて孝助へ「無事か。私を助けてくれ」と頼み、孝助は快諾し、(禁門の変後まだ日が浅く、動くことは極めて慎重にしなければならない。女子と同行していれば誰何されにくい)と心に思い、たまたま孝助の妹が京都の一商家に仕えているため、「俺は出石に帰ることにした。お前の主家は兵火に遭って難儀している。一緒に帰ろう」と妹を説得したが、却って「主家が難儀している今こそ妹に命じて主家に仕えて労に服させるのが兄の務めでしょう。どうして出石に帰ることができますか」と妹から反論されてしまった。その為やむを得ず竹次郎と二人で京都を発することとなった。戦乱後の時局のため、幕府方の探索が厳しく、孝助が百方弁解を駆使して何とか捕えられずに登尾坂を下るところまで来ることができた。坂の下に宿駅があり、久畑という出石藩の領内である。孝助は官吏の尋問により、自身の前罪発覚を恐れ、竹次郎に「この地には必ず関門があり尋問が厳しいでしょう。もし姓名を尋ねられたら、『封内美含郡訓谷村民船頭宇右衛門』であると答えるように。私は別路を行って宿駅の西で待っています」と説明した。竹次郎はこれを承諾し手分けして道を進んだ。孝助は約束の場所で竹次郎を待ったがしばらくしても来ない。そこへ、かごかきが走り寄って孝助を大声で呼んでいる。孝助は内心「ここまでうまく逃げてきたのにここで発覚してしまっては大命を果たすことができない」と思い、猛火のごとく関所へ向かった。藩士長岡市兵衛、高田十郎左衛門が関吏であり、孝助は長岡とは知り合いである。長岡いわく「この男は口述が曖昧で但馬弁でもない。何者だ」と。孝助いわく「この人は(出石藩)美含郡の船頭で、病気で大阪から帰るところであり、知り合ったため同伴しているところだ。大阪を出てから今まで傍を離れたことはないのだが、こうして藩境に入り、昔からの知り合いの家を通り過ぎる訳にはいかないため私がそこへ立ち寄り、暫く傍を離れていたところ君たちに迷惑をかけてしまった。どうか許してくれ」と。これに対し長岡・高田の二人は「お前の言葉を信じよう。我々が疑うことは何もない。通過してよい」と答えた。孝助は礼を述べ、力強く歩を進めた。黄昏、寺坂(豊岡市出石町寺坂)に達し、竹次郎を松屋某の家に宿泊させ、夜に乗じて出石に入り田結庄町の角屋喜作に頼んで家を借りることを約し寺坂に戻り、竹次郎を伴って喜作の家へ入った。喜作の家は市中の最も閑静なところにあり、更に八木町の畳屋茂七の倉庫を借りて潜伏するなどして七八十日が経った。既に孝助の罪は免除されている。これより先、宵田町の伏屋某という者がおり、家を鹽屋安兵衛に質入れしていたが、その家が質流れし、孝助がそれを借りて竹次郎と共に居住し、且つ幾松を京都に迎えに行った。官吏はこれらの動向を怪しんだ為、孝助は竹次郎を名主大橋氏下の吹田屋の屋敷に招致して養ったりもした。百方弁解の末、僅かに疑いを免れたものの、たまたま会津藩士三名がこれを知り、やって来て探索した。そこで二人(桂と甚助)は夜に乗じて養父市西念寺へ行き難を逃れた。慶応元年二月、孝助は竹次郎に同行して城崎温泉に浴し、松本屋に滞在すること五週間余り。竹次郎は松本屋の娘と通じ、娘は妊娠するが後に流産している。二人は出石に帰り、四月八日出石を出発し大阪に出て阿弥陀寺の早船に乗り下関に達する。竹次郎はここにおいて姓名を改めて木戸準一郎孝允と称し、難儀しながら皇政維新の事業に邁進する。慶応三年、木戸は軍を率いて京都に上り、孝助はこれに従った。既に大政一新は成り、木戸は孝助へ今後望むところを聞くと、孝助いわく「私はもと商家に生まれましたが栄達に興味はない」と。それを聞いた木戸は孝助へ「金数千金」を与え、孝助はこれを基に商事に力を入れ、巨万の富を築いた。明治五年債主が破産したため、孝助も破産した。人は皆これを憐れんだが、孝助は依然として意に介さなかった。着物は粗末に、食は質素になっても意に介さず、変わり者というべき人物である。孝助は常々「矢石が降り注ぐ中、郭内に入って幾松の母に誘われて河東の木戸のもとへ行って以来、怖気づいたことはない。独り久畑の関所へ木戸を助けに駆け付けたことを思い出しては今もなお毛髪が逆立つ思いがする」と言っていた。木戸は参議となるに及び、幾松を妻とする。木戸死後は翠香院と称したという。

 右(上記)は孝助が口語にて百瀬茂次郎に口伝えに教え、それを筆記させたものである。

  明治十二年

                              兒山 櫻井 勉

 

 

いかがだったでしょうか?

 

・冒頭、「孝助、本姓は廣江」とありますが、「廣江孝助」という名前は元々木戸孝允が出石潜伏中に名乗ったもので、出石の一隅に荒物商を開く時の変名「廣江屋孝助」のことであり、維新後(明治2年)に木戸が甚助に請われて彼に与えた名前です。文中、孝助の本名である廣戸甚助という名前は一度も登場しません。ひょっとすると、甚助は生来の放蕩気質から、この文が書かれた明治12年時点で廣戸家を勘当されていたのかもしれませんが、「鍋屋」とは廣戸家の屋号と思われ、これを称している以上、そうとも言い切れません。

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廣江屋孝助跡地に建つ記念の石碑

・城崎の松本屋の娘が木戸との間に子供を宿したが流産したというエピソードは司馬遼太郎の「逃げの小五郎」で知り、長年典拠が分からなかったため、司馬氏の創作かなと思っていましたが、「鍋屋孝助傳」に載っていることを初めて知りました。司馬氏はこれを典拠にした可能性が高そうです。

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松本屋跡(現:旅館つたや様)

・久畑の関所でのエピソードを割と多く語っており、「独り久畑の関所へ木戸を助けに駆け付けたことを思い出しては今もなお毛髪が逆立つ思いがする」と述べていることからも、甚助の中では木戸との思い出深い大切なエピソードだったのかなと思わせます。

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実際に久畑の関所があった場所は、現在石碑が建っている所から少し離れた地にある。

・廣戸甚助が口伝てに語った相手、百瀬茂次郎とは何者だろう?甚助の晩年、特に「巨万の富を築いた」という商売の内容、場所(大阪ということは分かっている)、甚助のお墓の場所等、分からないことが多いのだが、この百瀬茂次郎という人物が鍵を握ってはいまいか?