大道行くべし。

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木戸孝允の祖父・藤本玄盛とその墓所②(実地調査編)

 令和5年5月2日、山口県周南市呼坂へ行ってきました。その目的は、前回考察した木戸孝允の祖父・藤本玄盛の墓所=「上山墓地」をこの足で訪ね、玄盛のお墓をこの目で確認するためです。

 

旧呼坂宿、山陽街道を西に向かって歩き、藤本玄盛旧宅跡地の前を通り過ぎると、目の前に小高い丘が広がってきます。ここが「古市」と呼ばれている所です。そして海老のように折れ曲がった坂を登ります。

海老のように折れ曲がった坂から「海老坂」とも呼ばれ、これが「呼坂」の語源とも言われています。「古市坂」ともよばれているようですね。

「上山墓地」の入口にたどり着きました。

     

 

墓地へ続く小道を進むと・・・。

 

 

お地蔵さまがお出迎え。

 

 

更に進むと、墓地が見えてきました。

 

 

この中から藤本玄盛の墓碑を探します。

 

そして、遂にそれらしき墓碑を発見!まずは手を合わせ、たどり着いたことを感謝。

 

 

明治維新百年と熊毛町』掲載の写真との比較、同じ墓碑に見えます。50年以上経過していてもそれ程劣化していないように見えます。

 

墓碑に刻まれている戒名、はっきりとは読み取れません。

 

向かって右側面を見ると、はっきり「嘉永六癸丑十月八日 藤本玄盛墓 同人妻」と刻まれているのが読み取れました。これが木戸孝允の祖父・藤本玄盛のお墓であることが確定しました(奥さんも同じお墓に入っているようですね)。

 

行った甲斐がありました!

玄盛さん、改めてありがとうございました!

 

 

(おまけ)

玄盛墓の向かって左隣に「藤本氏合祭墓」、後ろに「藤本織之進墓」がありました。

これも合わせて合掌させていただきました。

 

木戸孝允の祖父・藤本玄盛とその墓所①(考察編)

 木戸孝允天保4年(1833)6月26日萩藩の藩医和田家に生まれ、「小五郎」と名付けられたため、初名を「和田小五郎」という。そして8歳の時に桂家に養子に出されて「桂小五郎」となり、その後、時代を経て「木戸貫治」→「木戸準一郎」→「木戸孝允」と改名していく。

 そもそも孝允の実父和田昌景も、藩医和田文琢の養子である。では、昌景の実父はどこの誰なのかというと、藤本玄盛という周防国熊毛郡呼坂村(現山口県周南市呼坂)の医者である。

藤本玄盛について、『松菊木戸公傳』に以下のような記述が見られる。

※木戸公傳記編纂所『松菊木戸公傳』上(明治書院 昭和2年)より引用

 木戸孝允の祖父(実父の実父)が藤本玄盛であるということは、この記述の存在によって以前からうっすらと認識していた。ところが、少し以前、木戸に関してネットサーフィンをしていたところ、ある文献中に「藤本玄盛」の名前を見かけ、彼の詳しい経歴と共に旧宅とお墓の写真まで掲載されていたので驚くと共に身近な存在として興味を抱くようになった。

※熊毛町文化財保護委員会編『明治維新百年と熊毛町』(熊毛町教育委員会 1968年)より引用


明治維新百年と熊毛町』がその文献であるが、特に次の記述が目を引いた。

 

「・・・木戸孝允の祖父が藤本玄盛と云う医者で、熊毛町(呼坂村)字西町に住んでいた人であり、そこで死去、墓が字古市の植山墓地にあることは余り知られていない」(P.23)


「かくの如く呼坂の医者藤本玄盛は孝允の祖父であることは明かである。玄盛は名医で息子周伯、孫良哉、呼坂に住み、医業を継ぎ、良哉の治療を受けた人は現存している」(P.24)

 

 木戸孝允のルーツがこんな所にあったとはと感銘を受けると共に、明治維新はまだそれほど昔の出来事ではないことを実感しました。

 

さて、藤本玄盛の旧宅、そして彼のお墓があるという「熊毛町字古市」の「植山墓地」とはどこにあるのだろう?

 

・藤本玄盛旧宅…これは様々情報が出ており、「字西町」の場所は特定されている。旧呼坂宿、山陽街道沿いに建つ石碑「吉田松陰 寺嶋忠三郎訣別の地」の斜め向かい辺りがそうらしい。しかし残念ながら旧宅は現存せず、それを示す案内板等も存在しない。

※(左)山陽道沿いに建つ「吉田松陰 寺嶋忠三郎訣別の地」碑。(右)その斜め向かいにかつて藤本玄盛の自宅があったが、現在はその面影もない。



・藤本玄盛墓所…まず、「古市」(熊毛町字古市)とはどこか?『角川地名大辞典35 山口県』所収「小字一覧」により、呼坂に「古市」という小字があることを確認。更にヤフーマップにて、玄盛旧宅跡地西の丘陵地一帯が「古市」であることを確認。この辺りに玄盛の墓所=「植山墓地」がある可能性が高い。

※(左)『角川地名大辞典 35 山口県』より引用。(右)ヤフーマップより引用。

 

※「植山墓地」は古市のどこにあるのか?

古市一帯の航空写真に気になる箇所を見つけた。

※ヤフーマップより引用。

これは「山」の中の墓地ではなかろうか?よく見ると山と街道を結ぶ小道がある。ここをストリートビューで見てみると・・・?!「お墓参りの方はご自由に水道をご利用ください」・・・やはり墓地でした!!

※(左)ヤフーマップより引用。(中)(左)グーグルマップ・ストリートビューより引用。

あとはここが「植山墓地」なのか裏付けがほしいところ。

 

※「植山墓地」の場所特定

ここで外堀を埋めるべく周辺の自治体史本を確認したところ、決定的と言える資料を発見!

・松岡利夫編『勝間村誌』(勝間村誌編纂委員会 1960年)

(※勝間村とはかつて呼坂村の西隣にあった村)

※(左)「昭和25年勝間村境域図」(中)「古墓及び祠堂位置図」(右)ヤフーマップより引用。 
現在の航空写真と比較すると位置関係がよく分かる。

「昭和25年勝間村境域図」を見ると、件の墓地が古市に所在することがはっきり分かり、更に「古墓及び祠堂位置図」を見ると、古市に「上山」という古墓が存在することが示されている!!「植山墓地」とは「上山(うえやま)墓地」だったのである!!(同音異字だったとは昔の文献あるあるですね)

 

以上、何とか藤本玄盛の墓所(らしき場所)を特定するに至りました。但し・・・

明治維新百年と熊毛町』も『勝間村誌』も半世紀以上前の書物。果たして現在も藤本玄盛のお墓は存在しているのであろうか?ご子孫の方によって「墓じまい」をされているかもしれないし、仮にお墓があったとしても古い墓石のこと、判別がつかないほど朽ち果てているかもしれない。

※「上山墓地」全景。(グーグルマップより引用)

とにかく百聞は一見に如かず。

期待と不安が入り混じる中、現地調査へ向かうことに!

(後編へ続く)

廣戸直蔵著「木戸孝允公出石町潜伏中の略記」について(前編)

桂小五郎(木戸孝允)の禁門の変後の出石における潜伏生活を調べるにあたって、まず手に取るべき基礎史料は何かと言えば、それは廣戸正蔵編『維新史蹟但馬出石に隠れたる木戸松菊公遺芳集』(出石郡教育会 昭和7年)であり、とりわけ同書所収の「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記(公の薨後父直蔵識之)」が参考になると思います。

では、廣戸直蔵が著したという「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記」とは何か。

 

2006年1月、廣戸家から京都の霊山歴史館へ刀や写真など約200点が寄贈されており、その中から『木戸孝允公出石潜伏中之記』が発見されている。これは、桂小五郎(木戸孝允)が元治元年禁門の変に敗れた後に但馬国の出石で暮らした約1年間の潜伏生活を中心に描かれた書物で、著者は廣戸直蔵である。2007年春、霊山歴史館で春季特別展「桂小五郎と幾松」が開催され、『木戸孝允公出石潜伏中之記』も展示・公開されている(行きたかった!)。

 

この『木戸孝允公出石潜伏中之記』こそ、「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記」の原典史料と考えます。

そこで今回は、『維新史蹟但馬出石に隠れたる木戸松菊公遺芳集』所収の「贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允出石町潜伏中の略記(公の薨後父直蔵識之)」を現代語に改めた上で書き起こしてみました(長文となるため前後編に分けました)。また、これと前回のブログであげた「鍋屋孝助傳」を比較してみるのも面白いと思います。

 

それでは、木戸が出石に逃れ約9か月の潜伏生活の末出石を出立するまでを描いた前編をどうぞ!

(※文中の「公」は木戸孝允のことです)

 

贈正二位内閣顧問勳一等

木戸孝允出石町潜伏中の略記

                (公の薨後父直蔵識之)

 

公、本姓は和田小五郎と称す。幼くして桂氏の養子となったため桂小五郎と称す。元治元年、公は京都河原町対馬藩邸におり、廣戸甚助も志すところがあって対馬藩邸の多田荘蔵のもとにおり、そのため公と親密であった。7月の禁門の変後、公は甚助のことを侠気ある人物と見込み、彼の本国但馬に遁れ、時節到来を待ちたいと甚助に説いた。甚助は公の厚い勤王の志を感じ、ただちに承諾した。その夜すぐに公の装束を但馬国の船頭姿に変え、ひそかに京都を抜け出し、道すがら諸藩の関門を通過する毎に「但馬国伊含村卯左衛門」と名乗った。こうして丹波を過ぎ、但馬国境の久畑村の関門に差しかかった時、甚助は(公の乗る)かごに遅れること2.3丁辺りにいた。かごが関門に達し、関吏の尋問に対し公は口ごもってしまい、関吏は公の挙動を疑い、益々公へ詰問し、今にも捕縛する勢いであった。そこへ甚助が遅れてやってきてこの有様を見、「この男は当国伊含村の者で、大阪で病気になり、私の雇船の船頭であるから連れ帰るところである!」と声を張り上げて言った。出石出身である甚助とは関吏も面識があり、そのためこれ以上疑わず、「お前が言ったことは間違いないだろう。よし」と通行を許可した。ようやく虎口を逃れて出石に着き、これまでの経緯を弟の直蔵に謀った。直蔵は父の跡取りであるが、以前、江戸に行く途中京都に寄り、公とは既に面識があったため、ただちにこれを快諾し、廣戸家の旦那寺である昌念寺に(公を)匿った。禁門の変後、長州人で方々へ潜んでいる者は多く、そのため会津藩士が出石に来るごとに直蔵たちは公を養父市場の西念寺に移した。同村に料理稼業の大塚屋新平という者がおり、公の容貌を見て凡人ではないことを察し、礼遇はすこぶる懇切であった。公もこれを喜んでおられた。その後、或いは出石町寡婦の家に匿ったり、或いは時として世間の疑惑を晴らすため湯島村の温泉に浸かり、世人の注目を憚って故意に女主人である松本屋へ宿泊したりした。同家に「たき」という娘がいて、公の境遇を悟り手厚く親切にお世話をした。このように過ごしながら、少しずつ甚助と直蔵は両親を諭し、(公を)廣戸家へ引き取った。これより公と(甚助・直蔵の父)喜七は本当の親子のように篤く情愛を通い合わせた。その後、親戚の志水重兵衛の周旋により、藩主の許可を得て宵田町に家を借りて廣戸家の別家とし、ようやく表向きに出石町に居住できるようになった。商売なくして町家で居住することは難しく、そこで、申し訳程度の荒物屋を開店した。公は秘密が露見することを恐れ、他人を雇い入れることを嫌がったため、直蔵の妹の八重に身の回りのお世話をさせた。公は控えめで慎ましく普段から行儀正しく凡人ならざるところがあり、人が一たび公を見ると自然と敬礼してしまうようなところがあった。甚助と直蔵は常に公が余りに広く交際するため、万一にも事が露見することを恐れた。公も兄弟の心配を悟り、その後は大に交際を慎むようになった。出石藩士の堀田反爾は(木戸の)昌念寺での囲碁仲間である。その他に志水重兵衛、大橋、蘆田、小幡のみで、皆懇切な交際をした。公の潜伏中、水戸藩では武田耕雲斎が捕まり、長州では俗論党の三家老の他数名を処刑し、尚その上削封の風評が専らであり、それを耳にするたびに(公は)憂え悲しみ嘆息していた。ところで、甚助は公を直蔵に託し、自身はしばしば長州や対馬及び京阪の間を往来して形勢を窺い、且つ公の密命を帯びていた。公は直蔵にすすめて「天下の形勢は今日の如し。この先どのようなことになるか分からない。ゆくゆくは酒造を業として長州から塩を輸入し、一手に隣国に売りさばこう」と語った。公の意中はいたずらに金儲けをすることが目的ではなく、長州の船舶を間断なく停泊させておき、一朝事ある時に用いるためとする計算であった。そのうち、慶応元年正月となった。出石の正月には「賭博の遊戯」をして楽しむ風習があり、公も子供を集めて花札をして心を慰めていた。ただし、決してお金をみだりに賭けて楽しんだということではなく、勝ち負けに関わらず子供たちに平等にお菓子を与えて喜ぶ姿を見て楽しみにしていた。そのため近隣の子供たちも皆先を争って公の元に行くのを楽しみにしていた。ある書籍には、公は潜伏中、博徒・酒客の中に身を置いていたために人に露見することがなかったとあるが、事実はすなわち前述の通りで、決して行儀作法を乱すような人ではない。従って「博徒の仲間云々」は誤りである。また、翠香院こと幾松君は禁門の変後ただちに対馬藩士に連れられて公の本国長州に行き危難を逃れている。慶応元年2月、(幾松は)廣戸甚助に連れられ出石に来て公と同棲している。公が出石に潜伏していることを長州人の中で知っている者は稀であり、村田蔵六公と伊藤博文公のみである。この時長州では俗論党が滅亡して公の党派が政権を握ったと聞くに及び、公は意を決し、(慶応元年)4月8日に出石を発足した。甚助と直蔵が付き従って長州まで公を送った。公が出石を出発するにあたって、喜七及び直蔵の姉妹らは皆別れを惜しみ、出石町から一里余りの和屋村近辺まで見送り、互いに涙を流しての別れであった。公はなおも名残を惜しみ、道中の宿所から直蔵の父喜七へ手紙を送ること再三にわたり、文中頗る真心がこもっていた。

 

・著者は廣戸直蔵なのですが、文中、直蔵自身も三人称で記されているのは何故か?編者の廣戸正蔵の手が加わっているのかもしれない。

 

・木戸が船頭に変装した時の名前を、甚助は「宇右衛門」(「鍋屋孝助傳」)、直蔵は「卯左衛門」としている。どっちが本当なのだろう?

 

・木戸が久畑の関所を通りかかった時、直蔵は不在だったにも関わらず、これ程詳細に、しかも「鍋屋孝助傳」とほぼ同じ内容が描かれているということは、後々まで直蔵が木戸や甚助と会うたびにこの時のことが話題に上がったのかも知れない。

 

養父市場の西念寺近くの料理屋、大塚屋新平の木戸に対する印象(「公ノ容貌ヲ見テ凡人ニ非ザルヲ察シ禮遇頗ル懇切ナリ」)や、廣戸兄弟が垣間見た木戸の寛大な性質(「公謙遜身ヲ持シ素行儀正シク凡人ナラザルヲ以テ人一度公ヲ見レバ敬禮盡サヾルナシ」)は、木戸孝允という人物の一端を表していて興味深い。

 

・木戸がある時期匿われたという「出石町寡婦ノ家」とはどこなのだろう?その場所を示す石碑等は存在しない。

 

・城崎の松本屋の娘「たき」と木戸のエピソードに関し、甚助と直蔵では表現が大きく異なる。

甚助→「慶應元年二月孝助竹次郎ト同ジク城崎温泉ニ浴シ御所松本屋ニ寓スルコト五週間餘竹次郎其女ニ通ズ姙ムアリ彼遂ニ流産ス」(「鍋屋孝助傳」※竹次郎=木戸の変名)。

直蔵→「湯島村ノ温泉ニ浴シ世人ノ注目ヲ憚リテ殊更ニ女戸主ナル松本屋方ヘ宿泊ス同家ニ一娘アリたきト言フ公ノ境遇ヲ悟リ頗ル懇篤ナリシ

※直蔵がオブラートに包んで穏やかに表現しているのに対し、甚助は直球ストレートな表現なのが面白い。それぞれの性格が垣間見える。(それにしても、松本屋たきの妊娠、流産は本当なのかどうか?)

 

・木戸と廣戸兄弟の父喜七が本当の親子のように交際したというのも微笑ましくていいなあ(「徐々両親ニ諭シ我家ニ引取ル是ヨリ公ト喜七トハ眞ノ親子ノ如ク愛情互ニ篤シ」)。

 

・甚助が幾松を出石に連れてくる際、賭博をして路銀を使い果たし逐電してしまうという有名なエピソードがこれにも「鍋屋孝助傳」にも出てこない。もしかして創作の可能性も?

 

 

後編に続く。

廣戸甚助伝記「鍋屋孝助傳」について

「鍋屋孝助」とは、元治元年(1864)禁門の変に敗れた木戸孝允(=桂小五郎)を助け、郷里の但馬国出石まで連れ帰り匿った、言わば木戸の命の恩人とも言える人物で、本名を「廣戸甚助」と言います。しかしながら彼の生涯は謎に包まれており、木戸と知り合う前はどこで何をしていたのか、木戸の死後はどのように生き、どこで生涯を終えたのかよく分かっていません。この「鍋屋孝助傳」は唯一と言ってよい廣戸甚助の伝記であり、その意味では大変貴重な史料だと思います。

 

「鍋屋孝助傳」の出典は廣戸正蔵編『維新史蹟但馬出石に隠れたる 木戸松菊公遺芳集』(出石郡教育会 昭和7年)。出石出身の明治期の政治家・櫻井勉が著したもの(廣戸甚助が人に語ったものを櫻井が文章化した)で、櫻井氏が執筆した原稿用紙そのまま掲載され翻刻はされていません。その為、正直なところ読みづらいです。

 

上記の理由から「鍋屋孝助傳」の存在は知りながらも未読のままだったのですが、たまたま手にした、廣戸正蔵編『木戸公遺蹟久畑の関碑記念帖』(出石郡教育会 昭和6年)という非売品の冊子に「鍋屋孝助傳」の翻刻文が掲載されていたのです!

 

そこで今回、試みとしてこの翻刻文を現代語に訳して書き起こしてみました。多少、解釈が原文と違っている箇所があるかもしれませんが、その点ご了承下さい。

 

それではどうぞ!

 

鍋屋孝助傳

孝助、本姓は廣江、鍋屋と称す。父を喜七と言う。但馬出石の人なり。幼い頃から自由気ままで飲酒と博打に明け暮れ、家業には見向きもしなかった。藩吏がまさに孝助を捕えようとした時、孝助は逃れて京都に入り対馬藩留守居役・多田荘蔵の家に仕えるようになった。同藩士に林竹次郎という者があり、人となりに優れ才能があり、特に孝助を可愛がった。ある日、竹次郎は但馬国の地図を描き、詳しい出石の形勢を孝助に問い、孝助はおもむろに次のように答えた。「この地は京都に近く慎み深く静かな所ですので、世間から逃れ隠れるには便利な地だと思います」。竹次郎は笑って「私がもし追われる身となり出石に行ったなら、お前は私を庇ってくれるか?」と尋ねたところ、孝助は笑って承諾した。竹次郎は以来、特に孝助に目をかけ密事をも委ねるようになり、且つ、「私は実に長州藩士・桂小五郎である」と、氏素性まで打ち明けた。元治元年、長州藩兵が京都に挙兵する前夜、竹次郎は孝助を使って弾薬を因幡藩松田正人の家に届けさせた。次の日、事(禁門の変)が起こり、孝助は松田正人邸へ駆け付けたが人気はなく、転じて因幡藩邸に入ると、兵士が満ち溢れており、孝助は逃げ帰って対馬藩邸へ潜伏し外へ出ようとしなかった。夜になって孝助の名を呼ぶ者があったが孝助は益々潜んで敢えて会おうとはしなかった。数日後、今度は芸妓幾松の母が夜になって孝助のもとへ来訪した。幾松は三本木の難波常次郎の養女にして常に竹次郎に贔屓にされていた者である。幾松の母が言うには、連夜、人を使って孝助を招こうとしたが孝助は面会しようとしなかった。そこで、幾松の母自身が訪ねて、孝助に頼みたいのは孝助の主君である桂小五郎を救ってほしい一心であると告げると、孝助は目を輝かせて「林さんは無事でしょうか?」と尋ね、幾松母は「主君が無事であるからこそこうして訪ねてきたのです」と。孝助はやっと袖を通して外に出、幾松母の導きで二条今出川通り河東のあばら家へ入った。季節は残暑厳しく、家は狭く室内にむしろを被って横になっている者がいた。孝助の聞き覚えのある声を聞いておもむろに彼の前にその面を現したのは竹次郎=桂小五郎その人だった。竹次郎は声を潜めて孝助へ「無事か。私を助けてくれ」と頼み、孝助は快諾し、(禁門の変後まだ日が浅く、動くことは極めて慎重にしなければならない。女子と同行していれば誰何されにくい)と心に思い、たまたま孝助の妹が京都の一商家に仕えているため、「俺は出石に帰ることにした。お前の主家は兵火に遭って難儀している。一緒に帰ろう」と妹を説得したが、却って「主家が難儀している今こそ妹に命じて主家に仕えて労に服させるのが兄の務めでしょう。どうして出石に帰ることができますか」と妹から反論されてしまった。その為やむを得ず竹次郎と二人で京都を発することとなった。戦乱後の時局のため、幕府方の探索が厳しく、孝助が百方弁解を駆使して何とか捕えられずに登尾坂を下るところまで来ることができた。坂の下に宿駅があり、久畑という出石藩の領内である。孝助は官吏の尋問により、自身の前罪発覚を恐れ、竹次郎に「この地には必ず関門があり尋問が厳しいでしょう。もし姓名を尋ねられたら、『封内美含郡訓谷村民船頭宇右衛門』であると答えるように。私は別路を行って宿駅の西で待っています」と説明した。竹次郎はこれを承諾し手分けして道を進んだ。孝助は約束の場所で竹次郎を待ったがしばらくしても来ない。そこへ、かごかきが走り寄って孝助を大声で呼んでいる。孝助は内心「ここまでうまく逃げてきたのにここで発覚してしまっては大命を果たすことができない」と思い、猛火のごとく関所へ向かった。藩士長岡市兵衛、高田十郎左衛門が関吏であり、孝助は長岡とは知り合いである。長岡いわく「この男は口述が曖昧で但馬弁でもない。何者だ」と。孝助いわく「この人は(出石藩)美含郡の船頭で、病気で大阪から帰るところであり、知り合ったため同伴しているところだ。大阪を出てから今まで傍を離れたことはないのだが、こうして藩境に入り、昔からの知り合いの家を通り過ぎる訳にはいかないため私がそこへ立ち寄り、暫く傍を離れていたところ君たちに迷惑をかけてしまった。どうか許してくれ」と。これに対し長岡・高田の二人は「お前の言葉を信じよう。我々が疑うことは何もない。通過してよい」と答えた。孝助は礼を述べ、力強く歩を進めた。黄昏、寺坂(豊岡市出石町寺坂)に達し、竹次郎を松屋某の家に宿泊させ、夜に乗じて出石に入り田結庄町の角屋喜作に頼んで家を借りることを約し寺坂に戻り、竹次郎を伴って喜作の家へ入った。喜作の家は市中の最も閑静なところにあり、更に八木町の畳屋茂七の倉庫を借りて潜伏するなどして七八十日が経った。既に孝助の罪は免除されている。これより先、宵田町の伏屋某という者がおり、家を鹽屋安兵衛に質入れしていたが、その家が質流れし、孝助がそれを借りて竹次郎と共に居住し、且つ幾松を京都に迎えに行った。官吏はこれらの動向を怪しんだ為、孝助は竹次郎を名主大橋氏下の吹田屋の屋敷に招致して養ったりもした。百方弁解の末、僅かに疑いを免れたものの、たまたま会津藩士三名がこれを知り、やって来て探索した。そこで二人(桂と甚助)は夜に乗じて養父市西念寺へ行き難を逃れた。慶応元年二月、孝助は竹次郎に同行して城崎温泉に浴し、松本屋に滞在すること五週間余り。竹次郎は松本屋の娘と通じ、娘は妊娠するが後に流産している。二人は出石に帰り、四月八日出石を出発し大阪に出て阿弥陀寺の早船に乗り下関に達する。竹次郎はここにおいて姓名を改めて木戸準一郎孝允と称し、難儀しながら皇政維新の事業に邁進する。慶応三年、木戸は軍を率いて京都に上り、孝助はこれに従った。既に大政一新は成り、木戸は孝助へ今後望むところを聞くと、孝助いわく「私はもと商家に生まれましたが栄達に興味はない」と。それを聞いた木戸は孝助へ「金数千金」を与え、孝助はこれを基に商事に力を入れ、巨万の富を築いた。明治五年債主が破産したため、孝助も破産した。人は皆これを憐れんだが、孝助は依然として意に介さなかった。着物は粗末に、食は質素になっても意に介さず、変わり者というべき人物である。孝助は常々「矢石が降り注ぐ中、郭内に入って幾松の母に誘われて河東の木戸のもとへ行って以来、怖気づいたことはない。独り久畑の関所へ木戸を助けに駆け付けたことを思い出しては今もなお毛髪が逆立つ思いがする」と言っていた。木戸は参議となるに及び、幾松を妻とする。木戸死後は翠香院と称したという。

 右(上記)は孝助が口語にて百瀬茂次郎に口伝えに教え、それを筆記させたものである。

  明治十二年

                              兒山 櫻井 勉

 

 

いかがだったでしょうか?

 

・冒頭、「孝助、本姓は廣江」とありますが、「廣江孝助」という名前は元々木戸孝允が出石潜伏中に名乗ったもので、出石の一隅に荒物商を開く時の変名「廣江屋孝助」のことであり、維新後(明治2年)に木戸が甚助に請われて彼に与えた名前です。文中、孝助の本名である廣戸甚助という名前は一度も登場しません。ひょっとすると、甚助は生来の放蕩気質から、この文が書かれた明治12年時点で廣戸家を勘当されていたのかもしれませんが、「鍋屋」とは廣戸家の屋号と思われ、これを称している以上、そうとも言い切れません。

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廣江屋孝助跡地に建つ記念の石碑

・城崎の松本屋の娘が木戸との間に子供を宿したが流産したというエピソードは司馬遼太郎の「逃げの小五郎」で知り、長年典拠が分からなかったため、司馬氏の創作かなと思っていましたが、「鍋屋孝助傳」に載っていることを初めて知りました。司馬氏はこれを典拠にした可能性が高そうです。

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松本屋跡(現:旅館つたや様)

・久畑の関所でのエピソードを割と多く語っており、「独り久畑の関所へ木戸を助けに駆け付けたことを思い出しては今もなお毛髪が逆立つ思いがする」と述べていることからも、甚助の中では木戸との思い出深い大切なエピソードだったのかなと思わせます。

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実際に久畑の関所があった場所は、現在石碑が建っている所から少し離れた地にある。

・廣戸甚助が口伝てに語った相手、百瀬茂次郎とは何者だろう?甚助の晩年、特に「巨万の富を築いた」という商売の内容、場所(大阪ということは分かっている)、甚助のお墓の場所等、分からないことが多いのだが、この百瀬茂次郎という人物が鍵を握ってはいまいか?

補遺②:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允

令和元年7月4日、山口県下関市豊田町安徳天皇西市陵墓参考地を再訪した。その結果、以前より考察を進めてきた次の3点について若干の進展が見られたためここにご報告する。

安徳天皇西市陵墓参考地にある木戸孝允詩碑設置の経緯
●詩碑の基となった木戸孝允の五言絶句はいつ、どこで揮毫されたものか(木戸は光雲寺を訪れたのか)
●明治初年における木戸孝允と西市中野家の関係性

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(※今回、明治から昭和にかけ、これらに関わった方々の御子孫・ご家族の方々とお会いすることができ、且ご教示を頂き、実に様々な示唆を得ることができた。皆様に感謝の意を表します)

 

木戸孝允詩碑設置の経緯
〇まず、『豊田町史』所収「豊田町史年表」より、関連項目を以下に抜粋する。

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※寿永4年に安徳天皇が(真実はどうあれ日本各地に残る伝承の一つとして)地吉の地に葬られ、それから長い年月(約700年)が経過し、安徳天皇陵墓「見込地」→同「伝説地」→同「参考地」と名称の変遷があり、昭和2年に「安徳天皇西市陵墓参考地」と定まり現在に至る。

そして日米開戦の前年、昭和15年に木屋川ダム工事が始まり、敗戦後の物資不足のため一時中止を経て、完成したのが昭和29年。紆余曲折の末、15年の歳月を要し完成した木屋川ダム。

そして翌年、そこに設置された木戸孝允の詩碑。これが何故設置されたのか。それは、ここが安徳天皇の眠る伝承地であり、そしてここを維新の元勲・木戸孝允が訪れたという歴史的出来事が、これを記念するモニュメントとして如何にも相応しかったからではないか。

 

山口県文書館所蔵、豊田町史蹟文化研究会編『王居止安徳天皇陵に関する資料』(豊田町史蹟文化研究会 昭和34年3月31日)に次のような一文がある。
「昭和二十九年ダム湛水紀念の一として八百年間殆ど世に知られざる王居止御陵一部が関係しているので時の知事小沢太郎氏の好意で〜」木戸孝允詩碑が建てられた(P.26)。
「丈余の自然石で出来た木戸孝允公の詩碑」(P.29)

 

豊田町文化協会編『三豊・西市地区資料』(豊田町文化協会 1996年)には、木戸孝允詩碑について御陵前広場に地元郷土史小林隆一氏の斡旋で県費で建立されたもの」とある。
ここで、前々回のブログ(補遺:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允)で紹介した詩碑側面に刻まれた文字、とりわけ3人の名前に着目したい。

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・一人は上記に挙げた郷土史家・小林隆氏。
・一人は神崎弥介氏。この方は現在まで約50年間、宮内庁の委託で安徳天皇西市御陵墓の守部をしてこられた神崎政徳氏の父(政徳氏より直接確認)。
・もう一人は能埜吾一氏。この方は現在、木戸孝允漢詩書を所蔵する諏訪山正念寺ご住職能埜氏の祖父に当たる方。当時は光雲寺住職(現住職の能埜氏に確認)。

※詩碑設置の経緯
豊田町郷土史家、小林隆一氏が安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允に纏わる歴史を調査し、そこに関わる御陵墓守部の神崎弥介氏・光雲寺住職の能埜吾一氏と小沢太郎山口県知事の間を小林氏が斡旋し、昭和30年4月、木屋川ダム竣工のモニュメントとして県費により丈余の自然石で木戸孝允詩碑(地吉近在の石材商に依頼=現住職能埜氏父より)を作成・設置したということが考えられる。

(キーパーソンとも言える小林隆一氏の著作等あれば確認したかったのだが、詳細は分からなかった)

 

木戸孝允はいつ、どこで漢詩を揮毫し、どのような経緯で光雲寺へ納められたのか

詩碑の解説板等にあるように、木戸が明治8年に光雲寺に宿泊し、漢詩を奉納したのは事実なのか。これまで何度もブログで考察してきた問題の核心であるが、いずれも出典が不明で且断片的なものばかりで決め手に欠ける。何よりも木戸自身がはっきりこのことに関して言及したものを残していないためだ。調べた限り、確認できるのは以下の事柄である。

・木戸が漢詩の原型を揮毫したのは明治4年4月28日深川にて(その後推敲を重ねた形跡あり)。
・石碑にあるような、明治年間に木戸が光雲寺に宿泊したという事実は一次史料からは確認できない。まして明治8年(5月2日)は不可能(木戸は東京に居る)。
・一次史料を確認する限り、明治年間に木戸が西市に立ち寄った際(3回)に宿泊したのは全て長正司の中野家であって光雲寺ではない。
・木屋川ダムの無かった当時、安徳天皇西市御陵墓、光雲寺の前の道を幕末以来何度も木戸は通り、萩⇔下関を往復していたと思われる。
・光雲寺と安徳天皇西市御陵墓、光雲寺と長州藩には、それぞれ強い結びつきが見られる。

・明治7年11月14日、木戸は安徳天皇西市御陵墓を参詣している。

 

山口県文書館所蔵、豊田町史蹟文化研究会編『王居止安徳天皇陵に関する資料』(豊田町史蹟文化研究会 昭和34年3月31日)に気になる一文がある。
「就中木戸公二回目ノ来泊即チ明治八年乙亥五月二日、王居止御陵墓ヨリ当寺ニ至ル沿道ノ風景ヲ輿中ヨリ眺望シツゝ次ノ五絶句ヲ残サル」(P.30)
※前段の「明治八年乙亥五月二日」は、上記にもあるように木戸は東京に居たため物理的に不可能。後段の「王居止御陵墓ヨリ当寺ニ至ル沿道ノ風景ヲ輿中ヨリ眺望シツゝ」、ここには2つの示唆があり、まず、この時木戸が辿ったのが御陵墓から光雲寺=北から南下する道中だったということ。もう一つは木戸が「輿」に乗っていたということ。

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明治7年10月3日、木戸は萩を出発し、地吉のどこか(光雲寺?)で昼食後、西市へ移動し中野家にて宿泊

明治期における木戸の3度の西市訪問のうち、北から南下してきたのは明治7年10月3日の訪問時のみ。この日の木戸の日記には次のようにある。

「曇糸賀及大田夫妻一同歸萩大寧寺泰成和尚其外暇乞に来るもの多々九字前出立地吉にて中食を認む四字過西市に至り中野源三宅に泊す地吉より腹痛にて甚難儀せり至暮漸治せり」

萩から南下して地吉に至り昼食を摂っているが、この場所が光雲寺である可能性はあろう。更に、この日腹痛を起こす程の体調不良から「輿」に乗っていたのかも知れず、そうであれば上記と符合する(漢詩中の「断腸杜宇聲」も、どことなく「腹痛」を想起させるものがある)。
→明治7年10月3日に光雲寺へ立ち寄り、漢詩を奉納した?(但し、上記文献の典拠が一体何なのか確認しておきたいところ)


木戸孝允と西市長正司中野家
木戸が西市に立ち寄った際、必ず中野家へ宿泊しているという事実から、この問題を考える時、個人的には西市の大庄屋である中野家が鍵を握っていると思えてくる。今回、諏訪山正念寺住職の能埜氏と再びお会いすることが叶い、更に能埜氏の紹介で長正司中野家現当主である中野景治氏ともお会いすることができ、色々とお話を伺う中で、以下の事実が判明した。

・「中野寛二郎」のこと
木戸が養子に欲しいと言っていた「中野寛二郎」(『木戸孝允日記』明治4年4月20日条)は、正しくは中野寛九郎という。彼は明治8年に8歳で早世しているとのことだった。母親の中野源三夫人(美祢出身)が養子に出すことを反対していた(『木戸孝允日記』明治4年4月21日条)のは体が弱かった為かもしれない。いずれにしても幼くして亡くなっていたことを知り、何とも無念である。

・中野家10代目当主について
中野家10代目当主、即ち9代目中野源三の跡継ぎは中野魯一氏。元治元年6月4日生まれ。明治18年8月21日、22歳で亡くなっている。

・「中野十一(福山東一)」について
9代目当主中野源三の弟。木戸は明治4年には彼のことを「中野十一」と記しているが、明治7年には「福山東一」となっている(『木戸孝允日記』)。即ちこの間に福山家へ養子に入ったと思われる。
嘉永3年4月5日生まれ。本名を東一郎といい、長門大津郡俵山の福山文右衛門の養子となり、「山東一郎」となった。

・中野家所蔵の木戸孝允
木戸孝允が中野家に遺していった書二幅を拝見させて頂いた。

f:id:wadakogorou-weblog:20190721230654j:plain 青山流水重楼
せいざんりゅうすいじゅうろう

辛未四月

為忘庵

中野翁

松菊狂生

※(訳)青々と生い茂った山と川のせせらぎとそびえる楼閣

明治四年四月

中野(半左衛門)翁の庵を称えて

 

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清流廻戸外

せいりゅうこがいをめぐり

四壁皆青山
しへきみなせいざん
聴水思琴瑟

みずをきくにきんしつをおもい

對雲忘世間
くもにむかいてはせけんをわするる

 

※(訳)清流は戸外を廻っており、四方は樹木の生い茂った山々が取り囲んでいる。川のせせらぎを聴けば自然と相和して心地良く、雲を眺めると世間のしがらみを忘れてしまうようだ。    

 

この書、実は『木戸孝允文書』八に収録されている。それによると明治2年箱根滞在時に作られた作品で「木香山中之作」と題名が付されている(「木香」とは、箱根における木戸の常宿「亀屋」のあった木賀のことと思われる)。それが、理由は分からないが中野家に所蔵されている。

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左は箱根木賀、右は豊田湖の情景

これらを目にすると、やはり木戸は書をこよなく愛し、親しい人々に揮毫しては贈呈していたことがよく分かる。安徳天皇西市御陵墓に関する漢詩書も、もしかしたら中野家で揮毫し、光雲寺へ奉納するよう中野家へ託したのではないかとの思いがするのである。

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正念寺所蔵の木戸孝允書との比較。どことなく似た雰囲気を帯びている


※以上、3つの観点から考察を試みた結果、木戸孝允漢詩書が光雲寺に納められた経緯について、以下3つの可能性を提示し、今回は筆を置くこととしたい。

1:明治期における3度(4年4月、7年10月、同年11月)の中野家訪問のいずれかで木戸は漢詩を揮毫し中野家が代理で光雲寺へ奉納した。
2:明治7年10月3日、木戸は萩から南下途次、地吉光雲寺に立ち寄り昼食を摂り、この時直接漢詩書を奉納した。
3:明治7年11月14日、木戸は安徳天皇西市御陵墓参詣の折、御陵墓経由で光雲寺へ漢詩書を奉納した。

 

 

 

※今回、中野景治氏のお話を基に改めて中野家系図を修正したのでここに再録しておく。

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諏訪山正念寺と同寺所蔵「木戸松菊二行之書」

安徳天皇西市陵墓参考地から南西の方角に位置する楢原という地に諏訪山正念寺はある。その起源を辿ると、寛永2年(1625)まで遡ることができる。当時、朝倉兵庫頭の家臣、甲斐修理という人物が出家し、法名を正清と称し、浄土真宗本願寺派一宇を建立したのが、後の正念寺のそもそもの始まりである。その後、寺運は衰微し、廃寺同様の状態が続いていたところ、西市の大庄屋格、中野家の4代目当主、中野半右衛門景林が寛政2年(1790)、58歳の時落飾出家して正念寺を建立し、自ら初代住職となった。翌年半右衛門景林は死去するものの寺基は確立し、現在に至っている。この功績の大きさから、半右衛門景林は正念寺の「中興の祖」とも呼ばれている。

明治初年に地吉の光雲寺に納められた木戸孝允の書「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」は、約80年間同寺に所蔵された後、昭和29年8月10日、木屋川ダム造成に伴う水没により廃絶後、諏訪山正念寺に引き継がれ所蔵されることとなり現在に至っている。

※以上、豊田町史編纂委員会編『豊田町史』(豊田町 1979年)参照。

この度、正念寺を訪れたところ、幸いにもご住職とお話をさせて頂く機会を得、確かに所蔵されているという、通常非公開の木戸の書を特別に見せて頂ける運びとなりました!

(※ご住職より、撮影+SNSに投稿することを快く許可頂きましたので、ここに掲載させて頂きます)

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正念寺山門。「諏訪山」扁額。

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軸箱。重厚な桐の箱に緊張感が募ります。

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そして、探し求めていた木戸の書が目の前に!

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所蔵以来、箱に納めたまま殆ど外に出していないとのことで、保存状態の良さが窺える。
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詩碑と書を並べてみると、木戸の筆跡のまま碑石に刻まれたことがよく分かります。

 

 

※大変貴重な物を見せて頂き、ありがとうございました。この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。

補遺:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允

安徳天皇西市御陵墓の所在地、山口県下関市豊田町地吉一帯は、現在は豊田湖とそれを取り囲む山々で構成されているが、木屋川ダムが造成される昭和30年以前は広大な平野が広がっていた。この平野を「地吉」という。

地吉の地を開いたのは、平安時代の応徳年代(1080年頃)、豊田氏2代輔平ではないかと思われ、「昔、この地は深山であったが、田地に開いてみれば案外地味は宜しかった」ため、この地を「地吉」と名付けたという記録も残っている(『豊田のふるさと誌』下関市豊田町観光協会豊田町文化協会 平成23年)。

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安徳天皇西市御陵墓(公式名称は「安徳天皇西市陵墓参考地」)は、「王居止陵」(おおいしりょう)とも呼ばれている。かつて御陵墓を含む一帯は「大石」と呼ばれており、「天皇の御霊が居り止まられるところ」という美称を当て「王居止」と名付けられた。他に、「王居士」、「皇居止」とも書かれ、「天皇様」とも呼ばれている(『豊田のふるさと誌』下関市豊田町観光協会豊田町文化協会 平成23年)。

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御陵墓最寄りのバス停の名称が「天皇様」であるのも、このことに基く。

今回、再度安徳天皇西市陵墓参考地を訪れ、木戸孝允詩碑を改めてよく眺めてみたところ、新たな発見があった。前回、表面の碑文ばかりに目を奪われ気が付かなかったのだが、石碑の側面にも文字が刻まれていたのである。一般的に石碑によく見られるような建碑由来だと思われるのだが、碑石の風化が著しく、解読が非常に困難であったが、何とか以下まで読み取ることができたので、ここに載せておくこととする。

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この地吉の地に安徳天皇陵と共に存在し、昭和29年木屋川ダム造成に伴い湖底に沈んだ、光雲寺という仏教寺院がかつてあった。光雲寺の山号は「丸尾山」といい、この「丸尾山」こそ安徳天皇陵のことを指しており、丸尾山のふもと、安徳天皇陵のごく近辺に光雲寺は存在していた。その後、光雲寺は地吉村落の中央地点である「茶屋ヶ原」へ、布教上の便をはかるため堂宇を移している(御陵墓のすぐ南)。

この茶屋ヶ原光雲寺と安徳天皇陵の前を通る道を「北海道」(ほっかいみち)といい、俯瞰すれば、当時、萩・長門⇔下関を結ぶ、この地方の最も主要な通行路だったのである。

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豊田町図書館郷土資料室「江戸時代豊浦郡交通図」藤井善門 編 より。

 

木戸孝允明治8年に訪れ、安徳天皇陵に纏わる漢詩を揮毫し、納めたと言われているのが、この茶屋ヶ原光雲寺である。

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茶屋ヶ原と、その地にかつてあった光雲寺の位置を示す石碑。対岸を望む。

・光雲寺について『豊田町史』(豊田町史編纂委員会編 豊田町 1979年)にはどのように記されているか。

 丸尾山 光雲寺 当時の開祖は大内家の臣能埜八蔵光永で主家の敗絶によって発心出家して了祐と号して地吉村の皇居山に草庵を結んだのが創立の当初である。万治二年(一六五九)に本願寺より浄土真宗として正式許可され、そのころに皇居山から茶屋ヶ原に移転した。江戸時代には藩の主要通路になっていたので、当寺には藩主の居間も造られ修理等も藩からなされていた。また英雲院毛利重就(萩本藩・八代藩主)寄進の正観音が寺内にあった。  

 

・『山口県豊浦郡郷土教育資料』(豊浦郡 1926年)はどうか。

       光   雲   寺

圓王山光雲寺は、西市村大字地吉に在り。眞宗本願寺派にして、天正元年津原主計頭善勝の臣熊野大藏光永法名了祐の創立にして、傳説の安徳天皇御陵墓に奉仕し、讀經供養洒掃を怠らず、延享年間布教上の便を計りて、御陵墓附近より現地に移轉したる後も、毎年陰暦三月廿四日法要を修して奉仕の尊牌を安んずること今に至るまで甞て怠る事なしといふ。なほ當時所在地茶屋ヶ原は本村の中央にあり。舊藩時代本支兩藩領地相接するの地點なれば、兩藩公並に一門及諸役人出張の際は、當時を以て其の宿所及休憩所に充て來りたるため、本藩主重就公・元徳公長府支藩主元敏公を始め、木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり、遺書遺物等現存す。其他本願寺各代法主の眞筆類少からず。附近における名寺なりとす。

 

以上の文献から類推すれば、光雲寺は安徳天皇陵に奉仕し、両者は切っても切り離せない間柄であり、更に、長州藩と光雲寺とは濃密な相互支援の関係にあったことが分かる。

山口県豊浦郡教育資料』にある「木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり、遺書遺物等」の一つこそまさに木戸孝允漢詩書「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」を指しているのであろう。

こうして調べていくと、長州藩士(山口県人)である木戸が光雲寺と安徳天皇陵を訪れ、安徳天皇漢詩を揮毫し、光雲寺に奉納したことは、何ら違和感のない行動であったことが分かる。

では、木戸が光雲寺を訪れ、漢詩書を納めたのは一体いつだろうか?安徳天皇西市陵墓参考地にある木戸孝允詩碑の解説板にある通り、木戸は明治8年に光雲寺を訪れたのだろうか?

『ふるさとのこぼれ話』(豊田町文化協会 平成2年)に、光雲寺に関して次のような記述がある。

 なお、旧藩公毛利家から年貢御鉢米を寄附され、代々の藩主がこの地を通られるさいには、かならず当寺に宿泊・休憩されるのを慣例とされた。

  旧長州藩は、家屋に対してもぜいたくなものを許さず、一定の制限をしたものであるが、本間造りと書院造りの建築を許している。

 再建だとか、修理のさいには、藩は若干の負担をしていた。

 こうした歴史を残した光雲寺で、明治時代の元勲たちの萩から赤間関への通行路であるので、当寺に休憩や宿泊された方々も多い。

 木戸孝允公(2回)、山県有朋公(1回)、三浦観樹将軍が萩の乱の時に1回などと記録に残っている。

 木戸公2回目の宿泊は、明治8年乙亥5月2日のことである。

 木戸が光雲寺に2回宿泊していることが記録に残り、2回目の宿泊は明治8年5月2日なのだという(この「記録」とは何なのか、出典が記されていない!)。

では、この日の木戸の日記にはどのように書かれているか(『木戸孝允日記』三 明治8年5月2日条)。

晴又雨元田直(廣澤云々なり) 桂太郎來訪十字参院二字退院其より佐藤  と約あり横濱に至る杉同行なり山田も亦後れ來る書畫古器を一見し小閑話九字辭去十二字前歸家

 前回のブログでも触れた通り、明治8年は木戸にとって極めて政治的多忙な年であり、当の5月も連日東京にて政務に勤しんでいることが日記に明確に記されており、東京を離れ、山口県の地吉(光雲寺)を訪れる余地は全くなく、物理的にも心情的にも不可能と言わざるを得ない。

では、木戸は光雲寺を一度も訪れなかったのかといえば、そうとも考えられない。少なくとも下関⇔萩を往復する際、光雲寺の前の道(北海道)を何度も通っているだろうし、何より現に木戸孝允詩碑の建碑由来に「明治初年の頃木戸孝允候地吉通過の途中〇ヶ原光雲寺に一泊」とあるし、それより以前に書かれた『山口県豊浦郡郷土教育資料』にも「木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり」とあり、これらは何らかの根拠があり記しているはずであり、木戸が光雲寺を一度も訪れることがなかったとは言い切れない。

では、この矛盾をどう解釈すればよいのか?木戸は実際に訪れていた光雲寺のことを日記に残さなかったということだろうか?

全国どこを訪れてもほぼ毎日欠かさず日記を付け、場所、地名、食事した場所、宿泊した所、出会った人等、事細かく記すことを怠らない木戸が、明治になって訪れ宿泊したと伝えられている光雲寺に関して一切の記録を残していないということに何とも言えない不可解さを個人的には感じてしまう。

そこで注目するのが、西市の大庄屋の中野家である。

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橋の手前、左側の邸宅が中野家である。

木戸が明治になってから(地吉含む)西市地方を訪れたのは、日記で確認する限り3度である。その時、木戸が宿泊しているのは3度とも西市の大庄屋の中野家である。

①明治4年4月19日~20日(1泊)

②明治7年10月3日~5日(2泊)

③明治7年11月13日~14日(1泊)

この3度のうちのいずれかで、中野家において木戸は漢詩「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」を揮毫したのではないか。そしてそれを中野家に託し、木戸の名代として中野家の誰かが光雲寺へ奉納したのではないだろうか。そして時を経て、木戸自身が光雲寺を訪れ、宿泊し、漢詩を揮毫し奉納したという形に次第に変化し、後世に伝承されていったとは考えられないだろうか。

(※但し、史料的な根拠がある訳ではないので、現時点での一つの推測・可能性として提示するに留める。今後もこの点に関し、継続して調べていきたい)

 

※前回のブログで掲げた西市中野家の系図に誤りがあり、また、初代から5代までが新たに判明したのでここに修正し、再掲しておく。

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『ふるさとのこぼれ話』(豊田町文化協会 平成2年)を基に修正