大道行くべし。

大好きな幕末維新史の考察、史跡巡りレポ、その他雑多に緩くいきたいと思います。よろしくお願いします。(Twitterも併せてどうぞ!→@wadakogorou)

補遺②:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允

令和元年7月4日、山口県下関市豊田町安徳天皇西市陵墓参考地を再訪した。その結果、以前より考察を進めてきた次の3点について若干の進展が見られたためここにご報告する。

安徳天皇西市陵墓参考地にある木戸孝允詩碑設置の経緯
●詩碑の基となった木戸孝允の五言絶句はいつ、どこで揮毫されたものか(木戸は光雲寺を訪れたのか)
●明治初年における木戸孝允と西市中野家の関係性

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(※今回、明治から昭和にかけ、これらに関わった方々の御子孫・ご家族の方々とお会いすることができ、且ご教示を頂き、実に様々な示唆を得ることができた。皆様に感謝の意を表します)

 

木戸孝允詩碑設置の経緯
〇まず、『豊田町史』所収「豊田町史年表」より、関連項目を以下に抜粋する。

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※寿永4年に安徳天皇が(真実はどうあれ日本各地に残る伝承の一つとして)地吉の地に葬られ、それから長い年月(約700年)が経過し、安徳天皇陵墓「見込地」→同「伝説地」→同「参考地」と名称の変遷があり、昭和2年に「安徳天皇西市陵墓参考地」と定まり現在に至る。

そして日米開戦の前年、昭和15年に木屋川ダム工事が始まり、敗戦後の物資不足のため一時中止を経て、完成したのが昭和29年。紆余曲折の末、15年の歳月を要し完成した木屋川ダム。

そして翌年、そこに設置された木戸孝允の詩碑。これが何故設置されたのか。それは、ここが安徳天皇の眠る伝承地であり、そしてここを維新の元勲・木戸孝允が訪れたという歴史的出来事が、これを記念するモニュメントとして如何にも相応しかったからではないか。

 

山口県文書館所蔵、豊田町史蹟文化研究会編『王居止安徳天皇陵に関する資料』(豊田町史蹟文化研究会 昭和34年3月31日)に次のような一文がある。
「昭和二十九年ダム湛水紀念の一として八百年間殆ど世に知られざる王居止御陵一部が関係しているので時の知事小沢太郎氏の好意で〜」木戸孝允詩碑が建てられた(P.26)。
「丈余の自然石で出来た木戸孝允公の詩碑」(P.29)

 

豊田町文化協会編『三豊・西市地区資料』(豊田町文化協会 1996年)には、木戸孝允詩碑について御陵前広場に地元郷土史小林隆一氏の斡旋で県費で建立されたもの」とある。
ここで、前々回のブログ(補遺:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允)で紹介した詩碑側面に刻まれた文字、とりわけ3人の名前に着目したい。

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・一人は上記に挙げた郷土史家・小林隆氏。
・一人は神崎弥介氏。この方は現在まで約50年間、宮内庁の委託で安徳天皇西市御陵墓の守部をしてこられた神崎政徳氏の父(政徳氏より直接確認)。
・もう一人は能埜吾一氏。この方は現在、木戸孝允漢詩書を所蔵する諏訪山正念寺ご住職能埜氏の祖父に当たる方。当時は光雲寺住職(現住職の能埜氏に確認)。

※詩碑設置の経緯
豊田町郷土史家、小林隆一氏が安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允に纏わる歴史を調査し、そこに関わる御陵墓守部の神崎弥介氏・光雲寺住職の能埜吾一氏と小沢太郎山口県知事の間を小林氏が斡旋し、昭和30年4月、木屋川ダム竣工のモニュメントとして県費により丈余の自然石で木戸孝允詩碑(地吉近在の石材商に依頼=現住職能埜氏父より)を作成・設置したということが考えられる。

(キーパーソンとも言える小林隆一氏の著作等あれば確認したかったのだが、詳細は分からなかった)

 

木戸孝允はいつ、どこで漢詩を揮毫し、どのような経緯で光雲寺へ納められたのか

詩碑の解説板等にあるように、木戸が明治8年に光雲寺に宿泊し、漢詩を奉納したのは事実なのか。これまで何度もブログで考察してきた問題の核心であるが、いずれも出典が不明で且断片的なものばかりで決め手に欠ける。何よりも木戸自身がはっきりこのことに関して言及したものを残していないためだ。調べた限り、確認できるのは以下の事柄である。

・木戸が漢詩の原型を揮毫したのは明治4年4月28日深川にて(その後推敲を重ねた形跡あり)。
・石碑にあるような、明治年間に木戸が光雲寺に宿泊したという事実は一次史料からは確認できない。まして明治8年(5月2日)は不可能(木戸は東京に居る)。
・一次史料を確認する限り、明治年間に木戸が西市に立ち寄った際(3回)に宿泊したのは全て長正司の中野家であって光雲寺ではない。
・木屋川ダムの無かった当時、安徳天皇西市御陵墓、光雲寺の前の道を幕末以来何度も木戸は通り、萩⇔下関を往復していたと思われる。
・光雲寺と安徳天皇西市御陵墓、光雲寺と長州藩には、それぞれ強い結びつきが見られる。

・明治7年11月14日、木戸は安徳天皇西市御陵墓を参詣している。

 

山口県文書館所蔵、豊田町史蹟文化研究会編『王居止安徳天皇陵に関する資料』(豊田町史蹟文化研究会 昭和34年3月31日)に気になる一文がある。
「就中木戸公二回目ノ来泊即チ明治八年乙亥五月二日、王居止御陵墓ヨリ当寺ニ至ル沿道ノ風景ヲ輿中ヨリ眺望シツゝ次ノ五絶句ヲ残サル」(P.30)
※前段の「明治八年乙亥五月二日」は、上記にもあるように木戸は東京に居たため物理的に不可能。後段の「王居止御陵墓ヨリ当寺ニ至ル沿道ノ風景ヲ輿中ヨリ眺望シツゝ」、ここには2つの示唆があり、まず、この時木戸が辿ったのが御陵墓から光雲寺=北から南下する道中だったということ。もう一つは木戸が「輿」に乗っていたということ。

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明治7年10月3日、木戸は萩を出発し、地吉のどこか(光雲寺?)で昼食後、西市へ移動し中野家にて宿泊

明治期における木戸の3度の西市訪問のうち、北から南下してきたのは明治7年10月3日の訪問時のみ。この日の木戸の日記には次のようにある。

「曇糸賀及大田夫妻一同歸萩大寧寺泰成和尚其外暇乞に来るもの多々九字前出立地吉にて中食を認む四字過西市に至り中野源三宅に泊す地吉より腹痛にて甚難儀せり至暮漸治せり」

萩から南下して地吉に至り昼食を摂っているが、この場所が光雲寺である可能性はあろう。更に、この日腹痛を起こす程の体調不良から「輿」に乗っていたのかも知れず、そうであれば上記と符合する(漢詩中の「断腸杜宇聲」も、どことなく「腹痛」を想起させるものがある)。
→明治7年10月3日に光雲寺へ立ち寄り、漢詩を奉納した?(但し、上記文献の典拠が一体何なのか確認しておきたいところ)


木戸孝允と西市長正司中野家
木戸が西市に立ち寄った際、必ず中野家へ宿泊しているという事実から、この問題を考える時、個人的には西市の大庄屋である中野家が鍵を握っていると思えてくる。今回、諏訪山正念寺住職の能埜氏と再びお会いすることが叶い、更に能埜氏の紹介で長正司中野家現当主である中野景治氏ともお会いすることができ、色々とお話を伺う中で、以下の事実が判明した。

・「中野寛二郎」のこと
木戸が養子に欲しいと言っていた「中野寛二郎」(『木戸孝允日記』明治4年4月20日条)は、正しくは中野寛九郎という。彼は明治8年に8歳で早世しているとのことだった。母親の中野源三夫人(美祢出身)が養子に出すことを反対していた(『木戸孝允日記』明治4年4月21日条)のは体が弱かった為かもしれない。いずれにしても幼くして亡くなっていたことを知り、何とも無念である。

・中野家10代目当主について
中野家10代目当主、即ち9代目中野源三の跡継ぎは中野魯一氏。元治元年6月4日生まれ。明治18年8月21日、22歳で亡くなっている。

・「中野十一(福山東一)」について
9代目当主中野源三の弟。木戸は明治4年には彼のことを「中野十一」と記しているが、明治7年には「福山東一」となっている(『木戸孝允日記』)。即ちこの間に福山家へ養子に入ったと思われる。
嘉永3年4月5日生まれ。本名を東一郎といい、長門大津郡俵山の福山文右衛門の養子となり、「山東一郎」となった。

・中野家所蔵の木戸孝允
木戸孝允が中野家に遺していった書二幅を拝見させて頂いた。

f:id:wadakogorou-weblog:20190721230654j:plain 青山流水重楼
せいざんりゅうすいじゅうろう

辛未四月

為忘庵

中野翁

松菊狂生

※(訳)青々と生い茂った山と川のせせらぎとそびえる楼閣

明治四年四月

中野(半左衛門)翁の庵を称えて

 

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清流廻戸外

せいりゅうこがいをめぐり

四壁皆青山
しへきみなせいざん
聴水思琴瑟

みずをきくにきんしつをおもい

對雲忘世間
くもにむかいてはせけんをわするる

 

※(訳)清流は戸外を廻っており、四方は樹木の生い茂った山々が取り囲んでいる。川のせせらぎを聴けば自然と相和して心地良く、雲を眺めると世間のしがらみを忘れてしまうようだ。    

 

この書、実は『木戸孝允文書』八に収録されている。それによると明治2年箱根滞在時に作られた作品で「木香山中之作」と題名が付されている(「木香」とは、箱根における木戸の常宿「亀屋」のあった木賀のことと思われる)。それが、理由は分からないが中野家に所蔵されている。

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左は箱根木賀、右は豊田湖の情景

これらを目にすると、やはり木戸は書をこよなく愛し、親しい人々に揮毫しては贈呈していたことがよく分かる。安徳天皇西市御陵墓に関する漢詩書も、もしかしたら中野家で揮毫し、光雲寺へ奉納するよう中野家へ託したのではないかとの思いがするのである。

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正念寺所蔵の木戸孝允書との比較。どことなく似た雰囲気を帯びている


※以上、3つの観点から考察を試みた結果、木戸孝允漢詩書が光雲寺に納められた経緯について、以下3つの可能性を提示し、今回は筆を置くこととしたい。

1:明治期における3度(4年4月、7年10月、同年11月)の中野家訪問のいずれかで木戸は漢詩を揮毫し中野家が代理で光雲寺へ奉納した。
2:明治7年10月3日、木戸は萩から南下途次、地吉光雲寺に立ち寄り昼食を摂り、この時直接漢詩書を奉納した。
3:明治7年11月14日、木戸は安徳天皇西市御陵墓参詣の折、御陵墓経由で光雲寺へ漢詩書を奉納した。

 

 

 

※今回、中野景治氏のお話を基に改めて中野家系図を修正したのでここに再録しておく。

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諏訪山正念寺と同寺所蔵「木戸松菊二行之書」

安徳天皇西市陵墓参考地から南西の方角に位置する楢原という地に諏訪山正念寺はある。その起源を辿ると、寛永2年(1625)まで遡ることができる。当時、朝倉兵庫頭の家臣、甲斐修理という人物が出家し、法名を正清と称し、浄土真宗本願寺派一宇を建立したのが、後の正念寺のそもそもの始まりである。その後、寺運は衰微し、廃寺同様の状態が続いていたところ、西市の大庄屋格、中野家の4代目当主、中野半右衛門景林が寛政2年(1790)、58歳の時落飾出家して正念寺を建立し、自ら初代住職となった。翌年半右衛門景林は死去するものの寺基は確立し、現在に至っている。この功績の大きさから、半右衛門景林は正念寺の「中興の祖」とも呼ばれている。

明治初年に地吉の光雲寺に納められた木戸孝允の書「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」は、約80年間同寺に所蔵された後、昭和29年8月10日、木屋川ダム造成に伴う水没により廃絶後、諏訪山正念寺に引き継がれ所蔵されることとなり現在に至っている。

※以上、豊田町史編纂委員会編『豊田町史』(豊田町 1979年)参照。

この度、正念寺を訪れたところ、幸いにもご住職とお話をさせて頂く機会を得、確かに所蔵されているという、通常非公開の木戸の書を特別に見せて頂ける運びとなりました!

(※ご住職より、撮影+SNSに投稿することを快く許可頂きましたので、ここに掲載させて頂きます)

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正念寺山門。「諏訪山」扁額。

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軸箱。重厚な桐の箱に緊張感が募ります。

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そして、探し求めていた木戸の書が目の前に!

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所蔵以来、箱に納めたまま殆ど外に出していないとのことで、保存状態の良さが窺える。
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詩碑と書を並べてみると、木戸の筆跡のまま碑石に刻まれたことがよく分かります。

 

 

※大変貴重な物を見せて頂き、ありがとうございました。この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。

補遺:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允

安徳天皇西市御陵墓の所在地、山口県下関市豊田町地吉一帯は、現在は豊田湖とそれを取り囲む山々で構成されているが、木屋川ダムが造成される昭和30年以前は広大な平野が広がっていた。この平野を「地吉」という。

地吉の地を開いたのは、平安時代の応徳年代(1080年頃)、豊田氏2代輔平ではないかと思われ、「昔、この地は深山であったが、田地に開いてみれば案外地味は宜しかった」ため、この地を「地吉」と名付けたという記録も残っている(『豊田のふるさと誌』下関市豊田町観光協会豊田町文化協会 平成23年)。

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安徳天皇西市御陵墓(公式名称は「安徳天皇西市陵墓参考地」)は、「王居止陵」(おおいしりょう)とも呼ばれている。かつて御陵墓を含む一帯は「大石」と呼ばれており、「天皇の御霊が居り止まられるところ」という美称を当て「王居止」と名付けられた。他に、「王居士」、「皇居止」とも書かれ、「天皇様」とも呼ばれている(『豊田のふるさと誌』下関市豊田町観光協会豊田町文化協会 平成23年)。

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御陵墓最寄りのバス停の名称が「天皇様」であるのも、このことに基く。

今回、再度安徳天皇西市陵墓参考地を訪れ、木戸孝允詩碑を改めてよく眺めてみたところ、新たな発見があった。前回、表面の碑文ばかりに目を奪われ気が付かなかったのだが、石碑の側面にも文字が刻まれていたのである。一般的に石碑によく見られるような建碑由来だと思われるのだが、碑石の風化が著しく、解読が非常に困難であったが、何とか以下まで読み取ることができたので、ここに載せておくこととする。

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この地吉の地に安徳天皇陵と共に存在し、昭和29年木屋川ダム造成に伴い湖底に沈んだ、光雲寺という仏教寺院がかつてあった。光雲寺の山号は「丸尾山」といい、この「丸尾山」こそ安徳天皇陵のことを指しており、丸尾山のふもと、安徳天皇陵のごく近辺に光雲寺は存在していた。その後、光雲寺は地吉村落の中央地点である「茶屋ヶ原」へ、布教上の便をはかるため堂宇を移している(御陵墓のすぐ南)。

この茶屋ヶ原光雲寺と安徳天皇陵の前を通る道を「北海道」(ほっかいみち)といい、俯瞰すれば、当時、萩・長門⇔下関を結ぶ、この地方の最も主要な通行路だったのである。

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豊田町図書館郷土資料室「江戸時代豊浦郡交通図」藤井善門 編 より。

 

木戸孝允明治8年に訪れ、安徳天皇陵に纏わる漢詩を揮毫し、納めたと言われているのが、この茶屋ヶ原光雲寺である。

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茶屋ヶ原と、その地にかつてあった光雲寺の位置を示す石碑。対岸を望む。

・光雲寺について『豊田町史』(豊田町史編纂委員会編 豊田町 1979年)にはどのように記されているか。

 丸尾山 光雲寺 当時の開祖は大内家の臣能埜八蔵光永で主家の敗絶によって発心出家して了祐と号して地吉村の皇居山に草庵を結んだのが創立の当初である。万治二年(一六五九)に本願寺より浄土真宗として正式許可され、そのころに皇居山から茶屋ヶ原に移転した。江戸時代には藩の主要通路になっていたので、当寺には藩主の居間も造られ修理等も藩からなされていた。また英雲院毛利重就(萩本藩・八代藩主)寄進の正観音が寺内にあった。  

 

・『山口県豊浦郡郷土教育資料』(豊浦郡 1926年)はどうか。

       光   雲   寺

圓王山光雲寺は、西市村大字地吉に在り。眞宗本願寺派にして、天正元年津原主計頭善勝の臣熊野大藏光永法名了祐の創立にして、傳説の安徳天皇御陵墓に奉仕し、讀經供養洒掃を怠らず、延享年間布教上の便を計りて、御陵墓附近より現地に移轉したる後も、毎年陰暦三月廿四日法要を修して奉仕の尊牌を安んずること今に至るまで甞て怠る事なしといふ。なほ當時所在地茶屋ヶ原は本村の中央にあり。舊藩時代本支兩藩領地相接するの地點なれば、兩藩公並に一門及諸役人出張の際は、當時を以て其の宿所及休憩所に充て來りたるため、本藩主重就公・元徳公長府支藩主元敏公を始め、木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり、遺書遺物等現存す。其他本願寺各代法主の眞筆類少からず。附近における名寺なりとす。

 

以上の文献から類推すれば、光雲寺は安徳天皇陵に奉仕し、両者は切っても切り離せない間柄であり、更に、長州藩と光雲寺とは濃密な相互支援の関係にあったことが分かる。

山口県豊浦郡教育資料』にある「木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり、遺書遺物等」の一つこそまさに木戸孝允漢詩書「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」を指しているのであろう。

こうして調べていくと、長州藩士(山口県人)である木戸が光雲寺と安徳天皇陵を訪れ、安徳天皇漢詩を揮毫し、光雲寺に奉納したことは、何ら違和感のない行動であったことが分かる。

では、木戸が光雲寺を訪れ、漢詩書を納めたのは一体いつだろうか?安徳天皇西市陵墓参考地にある木戸孝允詩碑の解説板にある通り、木戸は明治8年に光雲寺を訪れたのだろうか?

『ふるさとのこぼれ話』(豊田町文化協会 平成2年)に、光雲寺に関して次のような記述がある。

 なお、旧藩公毛利家から年貢御鉢米を寄附され、代々の藩主がこの地を通られるさいには、かならず当寺に宿泊・休憩されるのを慣例とされた。

  旧長州藩は、家屋に対してもぜいたくなものを許さず、一定の制限をしたものであるが、本間造りと書院造りの建築を許している。

 再建だとか、修理のさいには、藩は若干の負担をしていた。

 こうした歴史を残した光雲寺で、明治時代の元勲たちの萩から赤間関への通行路であるので、当寺に休憩や宿泊された方々も多い。

 木戸孝允公(2回)、山県有朋公(1回)、三浦観樹将軍が萩の乱の時に1回などと記録に残っている。

 木戸公2回目の宿泊は、明治8年乙亥5月2日のことである。

 木戸が光雲寺に2回宿泊していることが記録に残り、2回目の宿泊は明治8年5月2日なのだという(この「記録」とは何なのか、出典が記されていない!)。

では、この日の木戸の日記にはどのように書かれているか(『木戸孝允日記』三 明治8年5月2日条)。

晴又雨元田直(廣澤云々なり) 桂太郎來訪十字参院二字退院其より佐藤  と約あり横濱に至る杉同行なり山田も亦後れ來る書畫古器を一見し小閑話九字辭去十二字前歸家

 前回のブログでも触れた通り、明治8年は木戸にとって極めて政治的多忙な年であり、当の5月も連日東京にて政務に勤しんでいることが日記に明確に記されており、東京を離れ、山口県の地吉(光雲寺)を訪れる余地は全くなく、物理的にも心情的にも不可能と言わざるを得ない。

では、木戸は光雲寺を一度も訪れなかったのかといえば、そうとも考えられない。少なくとも下関⇔萩を往復する際、光雲寺の前の道(北海道)を何度も通っているだろうし、何より現に木戸孝允詩碑の建碑由来に「明治初年の頃木戸孝允候地吉通過の途中〇ヶ原光雲寺に一泊」とあるし、それより以前に書かれた『山口県豊浦郡郷土教育資料』にも「木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり」とあり、これらは何らかの根拠があり記しているはずであり、木戸が光雲寺を一度も訪れることがなかったとは言い切れない。

では、この矛盾をどう解釈すればよいのか?木戸は実際に訪れていた光雲寺のことを日記に残さなかったということだろうか?

全国どこを訪れてもほぼ毎日欠かさず日記を付け、場所、地名、食事した場所、宿泊した所、出会った人等、事細かく記すことを怠らない木戸が、明治になって訪れ宿泊したと伝えられている光雲寺に関して一切の記録を残していないということに何とも言えない不可解さを個人的には感じてしまう。

そこで注目するのが、西市の大庄屋の中野家である。

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橋の手前、左側の邸宅が中野家である。

木戸が明治になってから(地吉含む)西市地方を訪れたのは、日記で確認する限り3度である。その時、木戸が宿泊しているのは3度とも西市の大庄屋の中野家である。

①明治4年4月19日~20日(1泊)

②明治7年10月3日~5日(2泊)

③明治7年11月13日~14日(1泊)

この3度のうちのいずれかで、中野家において木戸は漢詩「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」を揮毫したのではないか。そしてそれを中野家に託し、木戸の名代として中野家の誰かが光雲寺へ奉納したのではないだろうか。そして時を経て、木戸自身が光雲寺を訪れ、宿泊し、漢詩を揮毫し奉納したという形に次第に変化し、後世に伝承されていったとは考えられないだろうか。

(※但し、史料的な根拠がある訳ではないので、現時点での一つの推測・可能性として提示するに留める。今後もこの点に関し、継続して調べていきたい)

 

※前回のブログで掲げた西市中野家の系図に誤りがあり、また、初代から5代までが新たに判明したのでここに修正し、再掲しておく。

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『ふるさとのこぼれ話』(豊田町文化協会 平成2年)を基に修正

安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允

山口県下関市豊田町地吉の豊田湖の湖畔に、寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いに敗れた平氏一族と共に入水し、僅か8歳でその生涯を閉じた第81代安徳天皇の御陵墓とされる安徳天皇西市陵墓参考地」がある。「参考地」とされているのは、西日本の各地に安徳天皇の御陵墓とされるものがあり、そのうちの一つということである(下関市赤間神宮境内にある阿弥陀寺陵が、現在安徳天皇の公式の御陵墓とされている)。

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この地に何故か木戸孝允の詩碑が建っている。碑石は一見したところ、随分と苔むしてかなりの年月が経過している印象を受ける。

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碑の前にある解説板には次のように書かれている。

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ここから読み取れる情報として、

・木戸は実際に安徳天皇西市御陵墓を訪れている。

・木戸は明治8年に「光雲寺」に「とまって」漢詩を「残した」。

以上2点である。しかし、これだけだと説明不足は否めず、次々と疑問が湧いてくる。即ち、

・「木戸はいつ、安徳天皇西市御陵墓を訪れたのか(通過しただけなのか、参詣したのか)?」

・「『光雲寺』はどこにあるのか?」

・「木戸は明治8年のいつ『光雲寺』を訪れたのか?」

・「木戸が漢詩を詠み、揮毫したのも『光雲寺』か、それとも別の場所か?」

・「『光雲寺』に宿泊したのか否か(「泊まって」?「留まって」?)」

・「この詩碑がいつ、誰によって、どのような経緯で設置されたのか?」

等、細部が全く判然としない。よって、主にこれらの点について、史資料を用いながら事実を抽出し、更にそこから若干の考察を加えてみたい。

 

木戸孝允はいつ、安徳天皇西市御陵墓を訪れたのか?
木戸が召命を受けて京都の太政官に初めて出仕したのが明治元年正月25日(『松菊木戸公伝』上)。以降、明治期に木戸が山口へ帰郷したのは、確認が取れる限り大別して以下の5度である。

明治元年閏4月~5月(キリスト教徒問題処理のため長崎出張途次に立ち寄る)
② 明治2年12月~同3年5月(山口藩諸隊の新兵編入協議のため帰藩。~脱退騒動)
③ 明治3年12月~同4年1月(藩力動員、中央政府強化の協議のために帰藩)
④ 明治4年2月~同5月(山口藩兵の御親兵編入議決のため帰藩)
⑤ 明治7年7月~同8年1月(参議兼文部卿を辞任し帰県)

木戸が安徳天皇西市御陵墓を訪れる物理的機会があったのが、この5度の山口行ということだが、それぞれの時期の木戸の日記(『木戸孝允日記』)をチェックしてみたところ、
①~③には木戸が御陵墓を訪れたことを示唆する記事は見当たらなかった(=だからと言って木戸がこの時期に御陵墓を訪れなかったとも言い切れないが)。
④の時期であるが、明治4年4月28日、木戸が安徳天皇西市御陵墓の北東に位置する深川温泉(現在の長門市)に滞在中、日記に次のように記している。

 

今日朝数箋へ揮毫せり近作あり
 溪流卷巨石山岳半空横四月陵邊路唯聞杜宇聲
 一路傍溪水兩涯多碧山輕鞍曉來雨人在萬翠間
 不關名利事山水只繫思小窓山影落半庭水横馳門外無俗客東軒捲簾遅
 俯仰天地間誰禁意所随焼香又煎茶此樂 人知

 

安徳天皇西市陵墓参考地」に建つ木戸の詩碑と傍線部を比較すると、「寿永陵」「四月陵」「断腸」「唯聞」以外は同じであることが分かる。

また、『木戸孝允文書』八巻所収の「詩集」中にも、同時期のものと思われる「深川近作」と題した、上記と同様の漢詩三つが掲載されている。

 

    深 川 近 作
溪流卷巨石 山岳半空横
地吉陵邊路 唯聞杜宇聲
 轉句一曰四月陵邊路
    

    同
一路傍溪水 兩涯多碧山
輕鞍不愁雨 人在萬翠間
       
    同
不関名利事 山水只繫思
半畫山影落 中庭水横馳
門外無俗客 東軒捲簾遅
俯仰天地間 誰禁意所随
焼香又煎茶 此樂人不知

 

ここでは、日記での「四月陵」の部分が「地吉陵」となっている。
更に上記に続き、「地吉途上有感」と題した漢詩も掲載されている。

 

     地吉途上有感
渓流卷巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 断膓杜宇聲

 

ここでは、「地吉陵」の部分が「壽永陵」に変わっており、「安徳天皇西市陵墓参考地」の詩碑と全く同じと言ってよい。すなわち、木戸が山口の深川温泉に滞在していた明治4年4月の段階で、何度か推敲を重ね、「安徳天皇西市陵墓参考地」の詩碑の原型が完成したものと考えられる。
この深川温泉に来る直前の明治4年4月19日、木戸は西市にて宿泊しているので(『木戸孝允日記』二)、その際、安徳天皇西市御陵墓を訪れた可能性はある(日記では確認できない)。

 

次に、⑤の時期であるが、まず明治7年10月3日の日記によれば、地吉で昼食をとり、その後西市で宿泊しているため(『木戸孝允日記』三)、安徳天皇西市御陵墓を訪れている可能性はある(日記では確認できない)。
次に、明治7年11月14日であるが、この日の日記に木戸は「一字地吉に至り地吉の陵に参詣し」と記しており(『木戸孝允日記』三)、更に『松菊木戸公伝』下巻所収「木戸孝允公年譜」の明治7年11月13日条に「公、下関を発し途に安徳天皇の御陵を拝し十六日萩に至る」とあることから、明治7年11月14日に木戸が安徳天皇西市御陵墓を訪れ参詣しているのは確実と言える(調べた限り、木戸が訪れ参詣したことを示す唯一の史料)。

 

・下関⇔長門、萩方面を往復する道として、安徳天皇西市御陵墓の傍の道を(そこが安徳天皇陵と意識して)通過することは幕末以来度々あっただろうと思われる(この道は当時の主要道路。後述)。

明治4年4月、「地吉途上有感」と題した漢詩を揮毫(「安徳天皇西市陵墓参考地」の木戸詩碑の原型)。

・明治7年11月14日、安徳天皇西市御陵墓を参詣(この時以外にも参詣した可能性はあるが、特定できるのはこの日のみ)。

・しかし、木戸の日記、書簡、伝記等を調べる限り、「光雲寺」についての言及が一切ないため、「光雲寺」がどこにあり、木戸がいつ「光雲寺」を訪れたのかは判然としない。

 

●「光雲寺」はどこにあるのか?
では次に、「光雲寺」の場所は一体どこなのかという問題であるが、「安徳天皇西市陵墓参考地」の所在地、豊田町の町史を纏めた『豊田町史』(豊田町史編纂委員会編 豊田町 1979年3月)を調べてみたところ、「安徳天皇西市陵墓参考地」に関して1章を割いて解説されている。その章末に、次のような一文がある。

 

   渓流捲巨石   山岳半空横
   寿永陵辺路   断腸杜宇声
     地吉途中    松菊生
 これは明治初年、木戸孝允が地吉の里を通り、王居止陵に詣でたときの詩である。地吉光雲寺に納めてあったが、豊田湖底になったので現在は楢原の正念寺に所蔵している。

 

現在ある豊田湖とは自然湖ではなく、人口のダム湖であり、それを造成する時に地吉の光雲寺はダムの底に沈んでしまったということであり、これは盲点であった。同じく『豊田町史』所収の「近世豊浦郡交通図」によれば、安徳帝陵のすぐ南、地吉村の茶屋ヶ原という所に「光雲寺」を確認できる。光雲寺の前を通る道は「北海道」(ほっかいみち)と呼び、豊田地方の「最も主要な道路」だったようだ。その為、光雲寺はかつて主要道路に面した著名な寺院だったのかもしれない。
それでは、「楢原の正念寺」とは現存するのか?『豊田町史』に次のようにある。

 

諏訪山 正念寺 朝倉兵庫頭の臣甲斐修理という武士が出家して法名を正清と称し、寛永二年(一六二五)に浄土真宗本願寺派一宇を建立したのが当寺の起源である。後代に至って寺運衰微して廃寺同様になったことも度々あったようである。
このような状態のときに、西市中野家の中野半右衛門景林が、その晩年の寛政二年(一七九〇)十一月五十八才の時落飾出家して正念寺を建立し、自ら初代住職となったが、翌三年九月五十九才で死去した。正念寺の経営未だ確立しないうち早く病没し残念であったが、以来ようやく寺基は確立した。昭和二十九年八月十日、地吉の光雲寺が豊田湖造成のため廃絶して、楢原正念寺と合併し諏訪山正念寺として現在にいたっている。

 

現在も山口県下関市豊田町大字楢原に正念寺は確かに存在しており、『豊田町史』に従えば、昭和29年豊田湖造成に伴い廃絶(水没)する光雲寺と合併し、その際木戸の漢詩も引き継ぎ所蔵することとなったらしい。

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●木戸は明治8年のいつ「光雲寺」を訪れたのか?
確かに光雲寺は昭和29年まで安徳天皇西市御陵墓の近在に存在していたことが分かった。では、詩碑の解説板にある通り、木戸は明治8年に光雲寺を訪れたのであろうか。言い換えれば、明治8年に木戸が山口県の地吉にある光雲寺を訪れることは物理的に可能だったのだろうか。

と言うのも、明治8年明治維新史上重大な年であり、その中心的役割を担う一人であった木戸が東京を離れることは極めて困難であったと言わざるを得ない。敢えて言うならば、参議兼文部卿を辞任し、明治7年7月から山口県滞在中であった木戸が、大阪で大久保利通板垣退助等と会うため(後に言う「大阪会議」)下関を出港したのが明治8年1月4日。つまり、木戸が明治8年山口県に居たのは、(『木戸孝允日記』、『松菊木戸公伝』を確認する限り)1月1日~4日の4日間に過ぎない。この4日間にしても、日記を見る限り、下関で新年を迎え、続々とくる訪問客の対応、亀山八幡宮への参詣、對帆楼での酒宴(1日)、人との面会、依頼されていた数十箋に及ぶ揮毫、来客への対応等(2日)、暇乞いの訪問、別杯の酒宴(3日)、4日は朝7時に乗艦し出発。以上、木戸が地吉の光雲寺を訪れる余地は全くないと言ってよい。その後も、

・1月〜2月→大阪にて大久保、板垣等と会談(「大阪会議」)。

・2月→東京へ戻り太政官の参議に復帰。

・3月~4月→制度改革に勤しむ。

・4月→左院右院を廃止し元老院大審院を設置。

・6月→地方官会議議長に任ぜられる。

・6月〜8月→同会議を主導。

・10月→朝鮮使節に内定。

・11月→脳病に罹り左足麻痺し歩行不能状態となる。

等、多忙を極めた末、体調を崩してその年は暮れている。その後も明治天皇行幸の供奉で東北や奈良・京阪、或いは療養のため箱根等を訪れることはあっても山口へ帰郷することはなく、明治10年5月、京都で生涯を終えている(『松菊木戸公伝』下巻所収「木戸孝允公年譜」より)。

結論として、明治8年以降に木戸が山口県地吉の光雲寺を訪れることは不可能と言ってよい。

 

●西市中野家と木戸孝允
木戸が安徳天皇西市御陵墓を参詣し(御陵墓の傍の道を度々通り)、漢詩を詠み、揮毫したことは紛れもない事実である。また、光雲寺にかつて木戸の漢詩が所蔵されていたことも紛れもない事実である。しかし、調べた限りにおいて木戸が光雲寺を訪れた形跡がないため、この二つの事実が一本の線として繋がらないのである。

可能性として、木戸は光雲寺を訪れたがそのことを日記に書かなかったか、そもそも光雲寺を訪れなかったか、のどちらかであろうが、仮に訪れていなかったとすれば、木戸と光雲寺の間に何らかの介在する人物が居たということである。そしてそれが、西市の中野家ではなかったかと個人的には考える。
木戸の漢詩が納められていた光雲寺が、昭和29年豊田湖造成時に水没する時、正念寺に吸収合併されることによって漢詩も同寺に引き継がれた。その正念寺の創設者は中野半右衛門景林である。
そう言えば、木戸が西市を訪れる時、決まって訪問、宿泊する所も「中野」家である。木戸と中野家の幕末以来の繋がりが見られ、親密な関係性が垣間見られる。

 

木戸孝允日記』より。
・明治4年4月19日条
「八字過西市に至り中野半左衛門之宅に泊す夜一家内出酒飯をすゝむ七年前余此家に泊せる事あり」

・同年4月20日条
「朝書を認め靑甫の叔母   來る一家相集談笑一字頃相發す今日半左衛門の孫寬二郎を余養育せんと欲し父源藏に相約す寬二郎は歳纔四」

・同年4月21日条
「中野十一見舞に來る兄源藏の書状持参寬二郎母手を離し他に出すを難し源藏も尤困窮せしよし也」

・同年4月24日条
「西市中野源藏等來る」

・明治7年10月3日条
「地吉にて中食を認む四字過西市に至り中野源藏宅に泊す地吉より腹痛にて甚難儀せり至暮漸治せり」

・同年10月4日条
「雨中野へ淹留~略~主人源藏父半左衛門當春死去せり彼は十年來の知人曾て當村より豊田川の通船を二十餘年苦配して終に開せりまた徳地川の通船も開けり伊勢近藤皆爲左衛門に歌あり余も亦一詠を其末に認めり
 去歳の春逢にし人は空くていさをしのみを語るけふかな」

・同年11月13日条
「六字五十分西市に至り中野源藏方へ泊す」

・同年11月14日条
「晴十一字前中野を發し一字地吉に至り地吉の陵に参詣し二字頃八幡臺に至る于時雨降る三字木津に至り福山東一方にて中食を認む(東一は中野源藏弟なり)

 

木戸は少なくとも幕末期、文久・元治頃から西市中野家を訪れ、当主半左衛門と懇意にしており、息子の源蔵、十一兄弟とも親密で、源蔵の息子である寛二郎を養子に迎えようとまでしている。
この中野家の人々と正念寺の創設者中野半右衛門景林は血縁者ではなかろうか?吉田祥朔『増補近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976)の「中野」姓を調べた結果、半右衛門景林は見当たらなかったものの、「中野源蔵」「中野半左衛門」が掲載されていた。

 

「ナカノゲンゾー 中野源藏 中野源藏名は景徳字は子徳、通称源藏(一に玄藏)長嘯また豊臺と号す、その先孫七郎の時より代々豊浦郡西市の長正寺に居り邑の里正たり、源藏学識徳行あり、屢々公共の事に力を效し輿望を負う、性文雅を愛し博く藩内外の名家と相識る、その学は主として藩儒片山鳳翩に負う所あるが如し文政十三年七月四日歿す、年七十四。遺著に筑紫紀行(文化五年)遊京録(同八年)遊京雑記(文政五年)及び豊台詩稿等あり、源藏深く真宗に帰依してその地に西念寺を建立す、また嘗て浄土宗乗の専修念仏要語、日課念仏勧導記二書の所説を論難して専修念仏自得抄(文化八年)朝霞辨(同十三年)及び涅不緇辨(文化十四年)を著わし大日比西円寺法洲と論駁を重ねたり」

 

「ナカノハンザエモン 中野半左衛門 名は景郷、中野源藏の孫にて世職を継ぎ大庄屋格たり、天資材器あり頗る業務に練達して萩藩の勧農及び産物方を勤め殊に捕鯨交易等の公務に斡旋して功労あり、また豊田川の浚渫(嘉永六年)并びに佐波(安政六年)厚狭(明治三年)二川の水路を開き舟楫を便にしたる功績あり、明治七年二月十三日歿、年七十一。遺著に日記数十巻あり」

 

西市中野家は中野孫七郎を祖とし、代々西市一帯の「里正」、「大庄屋格」だったようだ。ここに掲載されている「中野半左衛門」は、間違いなく木戸の知り合いの中野半左衛門であろう。また、中野源蔵は、没年が文政13年(1830)であることから木戸の知り合いの源蔵ではなく、彼と同姓同名の曽祖父(中野半左衛門の祖父)であることが分かった。
更に、諸文献により、やはり中野半右衛門景林は西市中野家と血縁関係にあることが分かった。即ち、半右衛門景林は西市中野家の5代目であり、源蔵景徳の父、半左衛門景郷の曽祖父、木戸の知り合いの源蔵(源三景宜)から見て高祖父にあたる人物である。

 

・現段階で判明していることを図にまとめた。

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※『豊田町史』、『木戸孝允日記』、『増補近世防長人名辞典』他、田中鉱蔵「江戸末期における通船事業―中野半左衛門を中心に―」(『山口県地方史研究』9号 1963年)、藤井善門「中野半左衛門の活動と勤王志士」(『山口県地方史研究』20号 1968年)、田村哲夫「<史料紹介>菊舎尼の新書簡―豊田町西市中野家所蔵―」(『山口県地方史研究』32号 1974年)を基に作成。

 

●総括
江戸時代中期から続く西市や地吉等一帯の有力者である西市中野家。その8代目中野半左衛門景郷、9代目中野源三景宜・十一兄弟と極めて親しい間柄の木戸が安徳天皇西市御陵墓を訪れ、漢詩を詠み、揮毫し、それが直接か間接か、何らかの形で光雲寺へ奉納された。その木戸の漢詩が、時を経て、昭和29年同寺廃絶による散逸を免れ、正念寺に引き継がれて所蔵された。その正念寺を創建したのが、木戸が懇意にしていた西市中野家の5代目中野半右衛門景林であるという事実に、不思議な縁を感じざるを得ない。

西市中野家と安徳天皇西市御陵墓や光雲寺がどのような関係性にあったのか、現在のところ判然としない。木戸の漢詩を巡って何らかの支援や介在があったのではと想像するのであるが、それを論じるための史資料に当たれていないため、改めて後考を期すこととしたい。

(その他残された課題)
・木戸は光雲寺を訪れなかったのか?
・光雲寺の由緒
・光雲寺と正念寺の合併の経緯
・木戸の詩碑が安徳天皇西市御陵墓に設置された経緯

これらも引き続き調査・検討していきたい。

平成30年12月16日 大磯探訪・補足(歴史を受け継ぐということ)

※史料・碑文等から見えてくる「歴史の伝承」。

明治天皇の大磯御滞在、特に北浜海岸臨御中の出来事についてもう少し掘り下げてみたいと思います。

・まず、基礎史料である明治天皇紀』にはどのように書かれているでしょうか。

「九日 卯の半刻小田原行在所を發し、小八幡・梅澤兩村を經て、午の刻大磯驛に箸御、本陣小島才三郎の家を以て行在所に充てたまふ、内侍所は神明社に奉安す、午後、海岸に臨御あらせられ、供奉諸藩の兵隊をして射撃を試みしめたまふ、乃ち巖上の群鴉を以て目標とせしむ、衆、榮を競ひて之れを撃てども皆中らず、亂鴉紛々として飛び去り、頗る御興を添ふ、又漁夫をして地曳網を投ぜしめ、漁撈の實況を叡覧あらせらる、漁夫、潮水を數個の大桶に湛へ、獲る所の鱗介を之れに放ち、御座所の前に運搬す、天顔頗る喜色あり、酉の刻行在所に還御したまふ、仍りて供奉諸藩兵竝びに漁夫等に物を賜ひ其の勞を犒はせらる」(『明治天皇紀』第一) 

 

・次に王城山上の明治天皇観漁記念碑」

明治元年七月詔シテ江戸ヲ東京ト改稱シ親臨政ヲ視ルヘキ旨公布セラレ同九月廿日聖駕京都ヲ發シ十月九日大磯驛御駐蹕更ニ海濱ニ幸シテ扈駕兵士ノ射的ト町民ノ捕魚トヲ天覧アリ漁網ノ岩角ニ掛リシヲ外サントテ漁夫等カ水ニ出没スル姿態及ヒ捕獲セシ魚族の潑溂タル漁槽ヲ漁夫等カ一齊ニ聲ヲ立テ御前咫尺ニ運セ来ル有様ナト初テノ御觀漁ユヘ特ニ御興ニ入ラセ玉ヒ漁夫等ニモ下賜品アリ當時供奉員諸氏ノ日記皆ナ之ヲ載ス今謹テ石ニ勤シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ榮ヲ永ク後ニ傳フト云フ」

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※ここにある「當時供奉員諸氏ノ日記皆ナ之ヲ載ス」という一文が気になります。『明治天皇紀』大磯の記述の参考文献として「〇東巡日誌、帝室日誌、女房日誌、木戸孝允日記、押小路親日記、東京行幸供奉日記、東京行幸内侍所御守衛日誌、道中御用日記、加藤泰秋家記、御東幸御道中筋御休泊留帳」とあるので、これらのことを指すのでしょう。

 

・ではそのうち、木戸孝允日記』該当箇所を見てみたいと思います。

「六字出立此日北風甚梅澤にて小憩し十字大磯驛に至り木村屋善六方へ宿す柏木来り角打等用意の調し事を告けり二三丁磯の巖石上に鴉数十羽とまり居し故角打の前には小隊を揃へ齊發に狙撃を命せられし事を申立しなり十二字前 御着輦前件の趣を相公へ言上し三字過より大磯の濱邊へ被為 入供奉兵隊の隊長どもへ被命候て三丁距離位にて巖石上にむらがり居し鴉を打せ玉ふに齊發相とゝのわず一鳥の得獲なし雖然波上に乱射し鳥其間に飛散し餘程 御興に思食させられ其より角打をはじめ且海辺より漁子どもは網をいれ角打終りしころ濱辺へ引上しに種々魚網中にあり其網のはし潮底の巖頭にかゝりしを漁子〇體にて一人飛入はづせしところ数十人の漁子とも盡われも々々々飛入引揚け一の箱の中へ潮水を入魚をはなし一時聲をたてゝ 御簾の前咫尺へ〇體のまゝわれを忘れてかゝへまいり如此事を 天覧ましませしは今が御始めにてこれ又有のまゝの様を被為遊 御覧度との 思召にはからず相かなひ且又今日海辺へ被為入候御道筋のはたけを取除き御道に造りかけしを此 思召を申聞け三四丁も御廻り道にて海辺へ被為入候を小民ともまことによろこび有かたかり候」(『木戸孝允日記』一 明治元年十月九日条)

 

・次に、神明神社 御由緒」はどうか。

明治元年(1868年)九月二十日、明治天皇は初めて京都を出発、東京に行幸途中、十月九日小田原をたち、昼には大磯宿の小島本陣へお着きになりました。昼食後、時間もあり江戸も近くなりましたので、天皇の長い旅路をお慰めしようと、北浜海岸(海水浴場)で、沖の岩の上に群がっている、からすに向かって一斉射撃をさせましたが、一瞬呼吸があわず全部逃げ去られてしまいました。初めての事なのでとてもお喜びになられました。その後 角打(大砲)がはじめられ轟音をとどろかせました。そのころ、漁師が地引網を入れ、角打が終わった時、地引網を引き揚げはじめましたが、網が海底の岩に引っかかったので、漁師がわれも、われもと飛びこんで引き揚げました。この網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来ました。前代未聞のことなので、一同びっくりしましたが、天皇は人々の有のままの姿をご覧になりたいと思っていたので、非常にお喜びになられました

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(この文章を読むと、『木戸孝允日記』との類似点が随所にあり、同日記を参照したことは一目瞭然)

 

※上記の各記録をまとめると、明治天皇の北浜海岸臨御中の出来事として、以下のようなことがあったことが分かります。

沖の岩の上に群がっているカラスへ供奉諸藩兵による一斉射撃を試みた。

カラスには当たらず逃げ去ってしまった。

しかし天皇はその光景が面白くて夢中になった。

大砲の発射があった。

漁民の地引網をご覧になった。

網が海底の岩角に引っかかったのを数十人の漁民が我も我もと一斉に海に飛び込んで外した。

漁民が獲れた魚をたらいに入れて裸のまま天皇の御前に声を弾ませ運んできた。

天皇は漁民達のありのままの姿をとても夢中になって喜んでご覧になった。

供奉諸藩兵と漁民達へ労をねぎらい品物を賜った。

 

明治天皇木戸孝允、その他供奉員、そして大磯の庶民(漁民)にとって、この時の出来事は、賑やかでとても楽しく、平和で穏やかな一時だったと言えるのではないでしょうか。いずれの記録からも、そのような微笑ましい光景が脳裏に浮かんできて、ついつい顔がほころんでしまいます。

 

かつて大磯の海岸で明治天皇木戸孝允ら供奉員達と庶民との間で心温まる交流があったということを、先人達は複数の記録・碑文を通して今日の私達に伝えようとしているのです。伝承することの大切さ、素晴らしさを大磯の町に教えられたような気がします。

 

先人達の「謹テ石ニ勤シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ榮ヲ永ク後ニ傳フ」という願いを無駄にしてはなりません。我々も次の世代へこの平和の願いを繋いでいかなければと強く思いました。

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北浜海岸の「明治天皇観漁記念碑」と眺望。約150年前、ここで明治天皇と大磯漁民の間に心温まる交流があった。

平成30年12月16日 大磯探訪③(明治天皇東幸の足跡を追って)

そういえば、海水浴場や保養地として栄えるずっと以前の明治元年、大磯は明治天皇が東幸の際に立ち寄られた東海道の宿場町の一つでもありました。当時、参与の職にあった木戸準一郎(孝允)もこの時供奉し、大磯を訪れています。何かこの時のものを示すような史跡はないか?今度はそこに焦点を絞り散策してみることにしました。 

 

※まずは基本的なおさらい。

明治元年明治天皇が東幸の際、大磯に立ち寄られたのが10月9日。

10月9日 午の刻(現在の11時から13時)、大磯驛着。

・行在所→本陣 小島才三郎家

・内侍所(三種の神器の一つ、八咫鏡を祀る場所)→神明社

午後、海岸に臨御。供奉諸藩兵による射撃、地元漁夫による地曳網漁を叡覧。

供奉諸藩兵、漁夫へ物を下賜。

酉の刻(現在の17時から19時)、行在所へ還御。

10月10日 卯の半刻(現在の6時)、大磯行在所を出御。

(以上、『明治天皇紀』第一より)

 

 

 

・まずは、かつての本陣、小島才三郎家を探してみることに。

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国道1号線旧東海道沿いにその石碑はありました。

碑文には「小島本陣は江戸時代約二百五十年の間東海道を旅する大名などのとまる旅館を営んでいた 明治元年十月九日明治天皇が東京遷都のため御東行の際の御宿泊所となった」とあります。

 

 

 

次に、三種の神器の一つ、八咫鏡を安置したという、神明社を探します。

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駅前の観光案内図を確認すると、確かに「神明神社」があります!

早速行ってみます。

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明治元年十月九日御東幸の途次 内侍所御羽車奉安之所 明治元年十二月九日御還幸之途次

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神明神社御由緒によれば、内侍所御羽車(天照大神の御霊代のヤタノカガミを祭ってある腰輿)がここ、神明神社に安置されたということのようです(明治元年10月9日と同年12月9日の2度)。

 

 

 

それでは明治天皇が臨御された海岸へ行ってみましょう。

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東の海岸沿いに「明治天皇」の文字が!ここに間違いなさそうです。

 

 

 

明治天皇觀漁記念碑

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傍らに建碑由来が書かれた石碑が。

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判読が困難だが、どうやら『明治天皇紀』と同趣旨のことが書かれているよう。また、この記念碑の題字を金子堅太郎が揮毫したことも分かりました。

 

 

 

あと一か所、どうしても気になる場所が・・・。

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山上に「明治天皇観漁の碑」の文字が・・・?

とにかく向かってみることとします。・・・しかし、案内板がどこにもなく、思った以上にルートが不明瞭でどう行けばいいのか分からない💦さんざん迷った挙句、ようやくそれらしき場所へ辿り着きました!

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題字の横に、揮毫が松方正義であることが刻まれていました。

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大正7年10月に建碑したことが分かります。

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後で確認したところ、このような場所にありました。駅から大きく迂回しなければ辿り着けません。しかし、苦労の末に目的地へ辿り着いたため喜びもひとしおです!



石碑の裏側に建碑由来が刻まれていましたので確認。

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だいたい『明治天皇紀』や海岸の「明治天皇観漁記念碑」建碑由来と同趣旨のことが書かれてありますが、末尾に「今謹テ石ニ勤シ之ヲ山上ニ建テ此地ノ榮ヲ永ク後ニ傳フト云フ」とあることから、この由来を読み取ることができます。

整備されずに荒れ放題の現状を鑑みれば、恐らくここにこれがあることを地元住民でも知らない人の方が多いのではないでしょうか。ましてや観光客にはほとんど知られていないように思います。もう少し整備し、かつ宣伝して行きやすくする必要があるのではと個人的には思います。とても立派な記念碑ですので、このまま日の目を見ずに寂れていくのはもったいないように思います。

平成30年12月16日 大磯探訪②(大磯と松本順)

時間が余ったため、大磯駅周辺の散策をすることに。

まず、駅前の観光案内図をチェック♪

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とりあえず適当に的を絞り散策してみることとします。


 

①まず、JR大磯駅前に否応なしに目につく巨大な石碑が。

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海内第一避暑地とある。

碑文によると、「東海道の名のある宿場町であった大磯は維新後衰退を見せていたが、明治18年軍医総監松本順がこの地が海水浴と澄んだ空気で病気の療養に良いと喧伝し、明治21年8月鉄道が開通したことも相俟って大いに栄え、明治41年日本新聞社の懸賞で大磯が日本一の避暑地に選ばれた」とあり、それを記念する石碑らしい(撰文:日本新聞社 書:野村素介)。

 

 

 

②妙大寺

駅からほど近い妙大寺に、当の松本順のお墓があるとのことで行ってみることに。

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墓誌によると、「明治18年、一切の公職から退き大磯にやってきた松本順は、この地の空気と海水浴が体に良いことを大いに宣伝し、更に日本最古の海水浴場(照ヶ崎海岸)を作った」とあります。どうやら大磯にとって松本順は大恩人と言えそうです。明治40年に76歳でこの地で亡くなった松本に大磯の人々は立派なお墓や顕彰碑を作って報いたと言えそうです。ではこの墓誌にもある「日本最古」の照ヶ崎海岸へ行ってみましょう!

 

 

 

③照ヶ崎海岸(松本順謝恩碑)

駅前の観光案内に従って海辺を散策すると次のような看板が。

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確かに「照ヶ崎海岸」は存在します。近いので行ってみます。

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「松本先生謝恩碑」。巨大なのですぐ分かりました。

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松本は大磯の知名度向上のため、「当時の有名な歌舞伎役者を大勢呼び寄せて旅籠に泊まらせ、海水浴をさせた」とあります。なかなか粋なことをしますね!

 

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照ヶ崎海岸


 

 

④大磯町立図書館・松本順の書

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たまたま寄った図書館でたまたま見つけた松本順の書「欽斯堂」。意味も由来もわからないが、大磯と松本順が切っても切り離せない関係であることは、このような事実を以てしても分かる。



 

(おまけ)

確かに日本最古の「海水浴場」は大磯の照ヶ崎海岸かもしれませんが、それ以前に海水浴療法を実践した人物がいます!・・・そう、木戸孝允です!

時は版籍奉還断行間近の明治2年5月。多忙を極めた木戸は健康を害し、大阪でオランダ人医師ボードインの治療を受け、「心志を労せし」とのことで養生を勧められ天保山下で海水入浴の療養を重ねた(松尾正人『木戸孝允吉川弘文館 2007年)。

「ホートイン云海濱に至り潮水に浴する尤療養におゐて可然と~依て一舟を雇ひ天保山外の濱に至り潮水に入兩度七字より十字過に及ひ十二字前歸寓」(『木戸孝允日記』明治2年5月11日条)

また、明治9年9月には鎌倉の江の島でも海水浴に興じています(10~12日)。

日本最古の「海水浴療法実践者」は木戸孝允かも!?

 

 

(③に続く)