木戸孝允の祖父・藤本玄盛とその墓所①(考察編)
木戸孝允は天保4年(1833)6月26日萩藩の藩医和田家に生まれ、「小五郎」と名付けられたため、初名を「和田小五郎」という。そして8歳の時に桂家に養子に出されて「桂小五郎」となり、その後、時代を経て「木戸貫治」→「木戸準一郎」→「木戸孝允」と改名していく。
そもそも孝允の実父和田昌景も、藩医和田文琢の養子である。では、昌景の実父はどこの誰なのかというと、藤本玄盛という周防国熊毛郡呼坂村(現山口県周南市呼坂)の医者である。
藤本玄盛について、『松菊木戸公傳』に以下のような記述が見られる。
木戸孝允の祖父(実父の実父)が藤本玄盛であるということは、この記述の存在によって以前からうっすらと認識していた。ところが、少し以前、木戸に関してネットサーフィンをしていたところ、ある文献中に「藤本玄盛」の名前を見かけ、彼の詳しい経歴と共に旧宅とお墓の写真まで掲載されていたので驚くと共に身近な存在として興味を抱くようになった。
『明治維新百年と熊毛町』がその文献であるが、特に次の記述が目を引いた。
「・・・木戸孝允の祖父が藤本玄盛と云う医者で、熊毛町(呼坂村)字西町に住んでいた人であり、そこで死去、墓が字古市の植山墓地にあることは余り知られていない」(P.23)
「かくの如く呼坂の医者藤本玄盛は孝允の祖父であることは明かである。玄盛は名医で息子周伯、孫良哉、呼坂に住み、医業を継ぎ、良哉の治療を受けた人は現存している」(P.24)
木戸孝允のルーツがこんな所にあったとはと感銘を受けると共に、明治維新はまだそれほど昔の出来事ではないことを実感しました。
さて、藤本玄盛の旧宅、そして彼のお墓があるという「熊毛町字古市」の「植山墓地」とはどこにあるのだろう?
・藤本玄盛旧宅…これは様々情報が出ており、「字西町」の場所は特定されている。旧呼坂宿、山陽街道沿いに建つ石碑「吉田松陰 寺嶋忠三郎訣別の地」の斜め向かい辺りがそうらしい。しかし残念ながら旧宅は現存せず、それを示す案内板等も存在しない。
・藤本玄盛墓所…まず、「古市」(熊毛町字古市)とはどこか?『角川地名大辞典35 山口県』所収「小字一覧」により、呼坂に「古市」という小字があることを確認。更にヤフーマップにて、玄盛旧宅跡地西の丘陵地一帯が「古市」であることを確認。この辺りに玄盛の墓所=「植山墓地」がある可能性が高い。
※「植山墓地」は古市のどこにあるのか?
古市一帯の航空写真に気になる箇所を見つけた。
これは「山」の中の墓地ではなかろうか?よく見ると山と街道を結ぶ小道がある。ここをストリートビューで見てみると・・・?!「お墓参りの方はご自由に水道をご利用ください」・・・やはり墓地でした!!
あとはここが「植山墓地」なのか裏付けがほしいところ。
※「植山墓地」の場所特定
ここで外堀を埋めるべく周辺の自治体史本を確認したところ、決定的と言える資料を発見!
・松岡利夫編『勝間村誌』(勝間村誌編纂委員会 1960年)
(※勝間村とはかつて呼坂村の西隣にあった村)
「昭和25年勝間村境域図」を見ると、件の墓地が古市に所在することがはっきり分かり、更に「古墓及び祠堂位置図」を見ると、古市に「上山」という古墓が存在することが示されている!!「植山墓地」とは「上山(うえやま)墓地」だったのである!!(同音異字だったとは昔の文献あるあるですね)
以上、何とか藤本玄盛の墓所(らしき場所)を特定するに至りました。但し・・・
『明治維新百年と熊毛町』も『勝間村誌』も半世紀以上前の書物。果たして現在も藤本玄盛のお墓は存在しているのであろうか?ご子孫の方によって「墓じまい」をされているかもしれないし、仮にお墓があったとしても古い墓石のこと、判別がつかないほど朽ち果てているかもしれない。
とにかく百聞は一見に如かず。
期待と不安が入り混じる中、現地調査へ向かうことに!
(後編へ続く)