補遺:安徳天皇西市御陵墓と木戸孝允
安徳天皇西市御陵墓の所在地、山口県下関市豊田町地吉一帯は、現在は豊田湖とそれを取り囲む山々で構成されているが、木屋川ダムが造成される昭和30年以前は広大な平野が広がっていた。この平野を「地吉」という。
地吉の地を開いたのは、平安時代の応徳年代(1080年頃)、豊田氏2代輔平ではないかと思われ、「昔、この地は深山であったが、田地に開いてみれば案外地味は宜しかった」ため、この地を「地吉」と名付けたという記録も残っている(『豊田のふるさと誌』下関市豊田町観光協会・豊田町文化協会 平成23年)。
安徳天皇西市御陵墓(公式名称は「安徳天皇西市陵墓参考地」)は、「王居止陵」(おおいしりょう)とも呼ばれている。かつて御陵墓を含む一帯は「大石」と呼ばれており、「天皇の御霊が居り止まられるところ」という美称を当て「王居止」と名付けられた。他に、「王居士」、「皇居止」とも書かれ、「天皇様」とも呼ばれている(『豊田のふるさと誌』下関市豊田町観光協会・豊田町文化協会 平成23年)。
今回、再度安徳天皇西市陵墓参考地を訪れ、木戸孝允詩碑を改めてよく眺めてみたところ、新たな発見があった。前回、表面の碑文ばかりに目を奪われ気が付かなかったのだが、石碑の側面にも文字が刻まれていたのである。一般的に石碑によく見られるような建碑由来だと思われるのだが、碑石の風化が著しく、解読が非常に困難であったが、何とか以下まで読み取ることができたので、ここに載せておくこととする。
この地吉の地に安徳天皇陵と共に存在し、昭和29年木屋川ダム造成に伴い湖底に沈んだ、光雲寺という仏教寺院がかつてあった。光雲寺の山号は「丸尾山」といい、この「丸尾山」こそ安徳天皇陵のことを指しており、丸尾山のふもと、安徳天皇陵のごく近辺に光雲寺は存在していた。その後、光雲寺は地吉村落の中央地点である「茶屋ヶ原」へ、布教上の便をはかるため堂宇を移している(御陵墓のすぐ南)。
この茶屋ヶ原光雲寺と安徳天皇陵の前を通る道を「北海道」(ほっかいみち)といい、俯瞰すれば、当時、萩・長門⇔下関を結ぶ、この地方の最も主要な通行路だったのである。
木戸孝允が明治8年に訪れ、安徳天皇陵に纏わる漢詩を揮毫し、納めたと言われているのが、この茶屋ヶ原光雲寺である。
・光雲寺について『豊田町史』(豊田町史編纂委員会編 豊田町 1979年)にはどのように記されているか。
丸尾山 光雲寺 当時の開祖は大内家の臣能埜八蔵光永で主家の敗絶によって発心出家して了祐と号して地吉村の皇居山に草庵を結んだのが創立の当初である。万治二年(一六五九)に本願寺より浄土真宗として正式許可され、そのころに皇居山から茶屋ヶ原に移転した。江戸時代には藩の主要通路になっていたので、当寺には藩主の居間も造られ修理等も藩からなされていた。また英雲院毛利重就(萩本藩・八代藩主)寄進の正観音が寺内にあった。
・『山口県豊浦郡郷土教育資料』(豊浦郡 1926年)はどうか。
光 雲 寺
圓王山光雲寺は、西市村大字地吉に在り。眞宗本願寺派にして、天正元年津原主計頭善勝の臣熊野大藏光永、法名了祐の創立にして、傳説の安徳天皇御陵墓に奉仕し、讀經供養洒掃を怠らず、延享年間布教上の便を計りて、御陵墓附近より現地に移轉したる後も、毎年陰暦三月廿四日法要を修して奉仕の尊牌を安んずること今に至るまで甞て怠る事なしといふ。なほ當時所在地茶屋ヶ原は本村の中央にあり。舊藩時代本支兩藩領地相接するの地點なれば、兩藩公並に一門及諸役人出張の際は、當時を以て其の宿所及休憩所に充て來りたるため、本藩主重就公・元徳公長府支藩主元敏公を始め、木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり、遺書遺物等現存す。其他本願寺各代法主の眞筆類少からず。附近における名寺なりとす。
以上の文献から類推すれば、光雲寺は安徳天皇陵に奉仕し、両者は切っても切り離せない間柄であり、更に、長州藩と光雲寺とは濃密な相互支援の関係にあったことが分かる。
『山口県豊浦郡教育資料』にある「木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり、遺書遺物等」の一つこそまさに木戸孝允の漢詩書「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」を指しているのであろう。
こうして調べていくと、長州藩士(山口県人)である木戸が光雲寺と安徳天皇陵を訪れ、安徳天皇の漢詩を揮毫し、光雲寺に奉納したことは、何ら違和感のない行動であったことが分かる。
では、木戸が光雲寺を訪れ、漢詩書を納めたのは一体いつだろうか?安徳天皇西市陵墓参考地にある木戸孝允詩碑の解説板にある通り、木戸は明治8年に光雲寺を訪れたのだろうか?
『ふるさとのこぼれ話』(豊田町文化協会 平成2年)に、光雲寺に関して次のような記述がある。
なお、旧藩公毛利家から年貢御鉢米を寄附され、代々の藩主がこの地を通られるさいには、かならず当寺に宿泊・休憩されるのを慣例とされた。
旧長州藩は、家屋に対してもぜいたくなものを許さず、一定の制限をしたものであるが、本間造りと書院造りの建築を許している。
再建だとか、修理のさいには、藩は若干の負担をしていた。
こうした歴史を残した光雲寺で、明治時代の元勲たちの萩から赤間関への通行路であるので、当寺に休憩や宿泊された方々も多い。
木戸孝允公(2回)、山県有朋公(1回)、三浦観樹将軍が萩の乱の時に1回などと記録に残っている。
木戸公2回目の宿泊は、明治8年乙亥5月2日のことである。
木戸が光雲寺に2回宿泊していることが記録に残り、2回目の宿泊は明治8年5月2日なのだという(この「記録」とは何なのか、出典が記されていない!)。
では、この日の木戸の日記にはどのように書かれているか(『木戸孝允日記』三 明治8年5月2日条)。
晴又雨元田直(廣澤云々なり) 桂太郎來訪十字参院二字退院其より佐藤 と約あり横濱に至る杉同行なり山田も亦後れ來る書畫古器を一見し小閑話九字辭去十二字前歸家
前回のブログでも触れた通り、明治8年は木戸にとって極めて政治的多忙な年であり、当の5月も連日東京にて政務に勤しんでいることが日記に明確に記されており、東京を離れ、山口県の地吉(光雲寺)を訪れる余地は全くなく、物理的にも心情的にも不可能と言わざるを得ない。
では、木戸は光雲寺を一度も訪れなかったのかといえば、そうとも考えられない。少なくとも下関⇔萩を往復する際、光雲寺の前の道(北海道)を何度も通っているだろうし、何より現に木戸孝允詩碑の建碑由来に「明治初年の頃木戸孝允候地吉通過の途中〇ヶ原光雲寺に一泊」とあるし、それより以前に書かれた『山口県豊浦郡郷土教育資料』にも「木戸・山縣・三浦諸名士の來泊せるあり」とあり、これらは何らかの根拠があり記しているはずであり、木戸が光雲寺を一度も訪れることがなかったとは言い切れない。
では、この矛盾をどう解釈すればよいのか?木戸は実際に訪れていた光雲寺のことを日記に残さなかったということだろうか?
全国どこを訪れてもほぼ毎日欠かさず日記を付け、場所、地名、食事した場所、宿泊した所、出会った人等、事細かく記すことを怠らない木戸が、明治になって訪れ宿泊したと伝えられている光雲寺に関して一切の記録を残していないということに何とも言えない不可解さを個人的には感じてしまう。
そこで注目するのが、西市の大庄屋の中野家である。
木戸が明治になってから(地吉含む)西市地方を訪れたのは、日記で確認する限り3度である。その時、木戸が宿泊しているのは3度とも西市の大庄屋の中野家である。
①明治4年4月19日~20日(1泊)
②明治7年10月3日~5日(2泊)
③明治7年11月13日~14日(1泊)
この3度のうちのいずれかで、中野家において木戸は漢詩「渓流巻巨石 山岳半空横 壽永陵邊路 斷腸杜宇聲」を揮毫したのではないか。そしてそれを中野家に託し、木戸の名代として中野家の誰かが光雲寺へ奉納したのではないだろうか。そして時を経て、木戸自身が光雲寺を訪れ、宿泊し、漢詩を揮毫し奉納したという形に次第に変化し、後世に伝承されていったとは考えられないだろうか。
(※但し、史料的な根拠がある訳ではないので、現時点での一つの推測・可能性として提示するに留める。今後もこの点に関し、継続して調べていきたい)
※前回のブログで掲げた西市中野家の系図に誤りがあり、また、初代から5代までが新たに判明したのでここに修正し、再掲しておく。