大道行くべし。

大好きな幕末維新史の考察、史跡巡りレポ、その他雑多に緩くいきたいと思います。よろしくお願いします。(Twitterも併せてどうぞ!→@wadakogorou)

「桂小五郎と幾松が駆けた幕末京都」レポ

平成30年11月18日、京都で開催された野外講座桂小五郎と幾松が駆けた幕末京都 ~料亭 幾松で会席料理、「幾松の間」を見学~」に参加してきました!

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※兼ねがね行ってみたいとは思っていたけど、個人で行くには少々敷居が高く、躊躇していた料亭幾松。霊山歴史館でチラシを見かけ、「行ける機会があるならこの期を逃す手はない!」と、思い切って参加。おまけに講師は木村武仁さんということなので☆

 

 

 

ではレポート開始します(各場所は以下の地図を参照のこと)

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梁川星巌寓居跡

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京阪電鉄神宮丸太町駅4番口すぐそば

梁川星巌は寛政元年(1789)生まれ。彼は詩人であり志士という二つの顔を持ち、詩作の方では「日本の李白」とまで言われた人。ここに寓居を構えたのは嘉永2年9月で、「鴨沂小隠」(おうきしょういん)と称した。ここに梅田雲浜頼三樹三郎吉田松陰等が集まり、密儀が度々行われた。

ちなみに星巌は安政5年コレラに罹り70歳で没しています。奇しくも安政の大獄で捕まる5日前だったことから、当時「死に上手」と評されたようです。

 

 

 

頼山陽寓居跡

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頼山陽がこの地に寓居を建てたのは文政11年(1828)。ちなみに「山紫水明」とは頼の造語であり、ここから見える鴨川と東山の景色に因んで。

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「山紫水明処」の由来となった景色

頼山陽と言えば『日本外史』が有名(日本外史の「外」とは体制の「外」という意味で、へりくだりを意味する)。完成したのは山紫水明処を建てる2年前の文政9年。当時の武士層のベストセラー。近藤勇も愛読者の一人で、頼山陽の書を真似て書くほどであったという。因みに当時の能筆家である西郷隆盛の号「南洲」に対し、「東洲」と署名した近藤の書が京都国立博物館にあるそうです。

 

 

 

③吉田屋跡・京都法政学校設立碑

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幕末の三本木に10件ほどあった料亭(三本木花街)のうちの一軒が吉田屋。尊王攘夷志士の密会にも使われた。木戸孝允がここで密談中、新選組に踏み込まれ、幾松の機転で難を逃れるというエピソード(踏み込まれても顔色一つ変えずに踊り続けたため、近藤勇がその肝の大きさに感心し引き上げた)が残る。慶応3年薩土盟約が締結された場所でもある。

この吉田屋の北に清輝楼という料亭があり、明治33年、西園寺公望の秘書中川小十郎がこの2階部分を間借りして京都法政学校を創立。後の立命館です。

 

 

 

④女紅場跡・舎密局

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「にょこうば」と読みます。明治5年、華族や士族の子女のために設置。英語や機織り、礼儀作法などを教えた。現在の京都府鴨沂高校の前身。

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⑤法雲寺

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文久2年、長州藩久坂玄瑞長井雅楽暗殺を試み失敗し、自首して 謹慎したのがこの法雲寺です。

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本堂は当時の姿を留めており、内部には久坂謹慎の間も残っていると思われる(非公開)。

 

 

 

善導寺(島田左近遭難の地)

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島田左近は九条家の諸大夫。京都での天誅事件被害者第一号。「竜宮門のある寺の前で殺された」との記録が残っており、これがその門。

(②へ続く)

木戸孝允と箱根③

木戸は箱根滞在中、折に触れ多くの詩作をしています。中でも次の漢詩は印象的です。

對江山
千里江山落眼中 眼中江山則千里 山自幽靜水自淸
日日相對我心喜 天地妙美人不知 人不知處却妙美
大道可行又何妨 聖賢所解無空山 君子如愚小人智
一時名利不足恃 専是天眞誰得禁 可憐世情如片紙
分明眼中判是非 欲托生涯江山是

(『木戸孝允文書』八より引用)

 

『松菊木戸公伝』によると、この詩を詠んだのは明治2年8月24日であり、木戸が供の者達と芦之湯の山頂に登り、遠く鎌倉、江の島の景色を眺めたことを受けてのこと(『木戸孝允日記』に従えば26日)とされます。中でも、「大道可行又何妨(大道行くべし又何ぞ妨げん)」の一節は強く印象に残ります。「人の踏み行うべき道を歩め、さすれば妨げるものなどあろうものか」という意味です。

私は漢詩の素養がなく、具体的な意味はあまりよく分かりませんが、全体的な雰囲気は何となく伝わってきます。タイトルにある「江山」とは、山河とか国土、国家という意味。政治闘争に明け暮れ、思い通りに行かない現実が心身を次第に疲弊させていき、箱根に隠遁した木戸が、その大自然が作り出す「妙美」を眼前にした時、自身の志と重ね合わせ、「人間も自然の一部であって、私も自然の摂理に随って生きたい」と、願望にも似た気持ちで詠んだのかもしれません。

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山自幽靜水自淸


もしかして箱根には、何か木戸の人生観のようなものが凝縮しているのではないか。少なくとも木戸は箱根に対してそのような思いを抱いたのではないか。この漢詩の存在を知ったことをきっかけに何となくそう考えるようになり、木戸の箱根隠遁中の動向に興味が湧き、箱根での足跡を出来る限り辿ってみようと、実際に箱根に行ってみることを思い立ちました。

(※あくまで個人の感想です)

 

しかし、木戸が何故あのタイミングで、何故箱根に赴き、誰を伴い、箱根では誰と何をしたのかということまで突き詰めるには至っておらず、ただ何月何日どこに行ったということを表面的になぞるに留まり、まだまだ探求は端緒に就いたばかり。これからも折に触れて調べ、「木戸孝允と箱根」について更に立体的に肉付けし、解明していきたいと考えています。その為にはまた箱根を再訪する時が来るでしょう。

それにしても、日帰りではやはり足跡全てを充分に回ることができなかった。後半は次第にあたりが暗くなってきて帰りの足のことが気になり駆け足になってしまった。じっくり回るにはやはり宿泊する方が無難と痛感しました。ただ、箱根は知れば知るほど魅力が増す町ですね。お陰様で箱根には結構詳しくなった気がします^^♪

木戸孝允と箱根②

明治2年と9年の木戸孝允の箱根滞在時の動向に関して共通して言えることは、いずれも5か所もの旅館に欠かさず宿泊或いは立ち寄っていること。
芦之湯「松坂屋」、箱根町「はふ屋」、宮ノ下「奈良屋」、木賀「亀屋」、湯本「福住」。
以上の5か所の旅館が木戸のお気に入りの常宿だったと見て良いように思います。

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五旅館の位置関係

① 芦之湯 松坂屋

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木戸の明治2年箱根滞在時のメインとなった宿。この時ここで西郷隆盛と会見を行ったというが、果たして・・・?

箱根町 はふ屋(現:箱根ホテル)

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残念なことに、現在はふ屋を示すような面影は全く失われている。ところで「はふ」とは一体何を意味するのか?


③宮ノ下 奈良屋(現:NARAYA CAFE)

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現在は若者に人気のカフェに変貌している。店内には当時使用されていた屋号看板が展示されているので一見の価値あり。

④木賀 亀屋(現:ルボン将軍の碑)

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探し当てるのに少し苦労しました。ルボン将軍とはフランス軍人であり、お雇い外国人。木賀、そして亀屋を愛した一人で、地元の方々がそれに感謝の意を込めて亀屋跡に石碑を建てたとのこと。

⑤湯本 福住

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先日NHKブラタモリ」でも紹介されていた有名な旅館。多くの著名人もここに宿泊し、書を揮毫している。

想像の域を出ませんが、きっとそれぞれの旅館で厚いおもてなしを受け、人々と交流し、温泉に浸かり、木戸にとってこれらが大いに心身の癒しになったのではないでしょうか。

木戸孝允と箱根

日本有数の温泉地である箱根。その開湯は今から約1300年前、奈良時代まで遡ります。安土桃山時代には豊臣秀吉小田原征伐があり、その際、全国から招集された武将達が滞陣中、この地で温泉に浸かったと言われています。江戸時代には東海道沿いの温泉として繁栄し、「箱根七湯」(湯本、塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯)が整備されます。明治に入ってからは保養地・観光地として更に開発が進み、多くの著名人が箱根を訪れました。

木戸孝允も例外ではなく箱根を愛した一人。『木戸孝允日記』を調べた限りでは、木戸は明治になってから箱根を4回訪れています。明治元年、2年、7年、9年の計4回です。但し、このうち明治元年は、明治天皇の東幸の供奉で通過したのみ(10月8日)。明治7年は、政府の台湾出兵に抗議し辞職、郷里山口へ帰る途中に立ち寄り、湯本に2泊(5月28~30日)したのみで、この2回は箱根そのものが目的地ではありませんでした。木戸が箱根を目的地として訪れ長期滞在したのは明治2年と9年の2回ということになります。そこで、この2回のそれぞれの箱根滞在時の足跡をまとめたものが以下の表になります(『木戸孝允日記』を基に作成)。

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※『木戸孝允日記』と併せて読むとよく分かるのですが、明治2年は湯治とは言え、伊豆や鎌倉にも足を伸ばし、観光は勿論、狩猟をしたり各地の要人、外国人に会ったり、木戸の元に書簡が届いてはその返書を認めたりと、なかなか活動的な印象を受けます。一方、明治9年はほぼ毎日医師の診察を受け散歩「療法」に努めながらも、竹輿で移動したり終日床に臥せっていたかと思えば皇后への伺候をしたり箱根の急峻な山を登山したりと体調が良かったり悪かったり、安定しない印象を受けます。亡くなる約9か月前なので当然と言えば当然ですが・・・。