大道行くべし。

大好きな幕末維新史の考察、史跡巡りレポ、その他雑多に緩くいきたいと思います。よろしくお願いします。(Twitterも併せてどうぞ!→@wadakogorou)

「桂小五郎と幾松が駆けた幕末京都」レポ

平成30年11月18日、京都で開催された野外講座桂小五郎と幾松が駆けた幕末京都 ~料亭 幾松で会席料理、「幾松の間」を見学~」に参加してきました!

f:id:wadakogorou-weblog:20181212141009j:plain

※兼ねがね行ってみたいとは思っていたけど、個人で行くには少々敷居が高く、躊躇していた料亭幾松。霊山歴史館でチラシを見かけ、「行ける機会があるならこの期を逃す手はない!」と、思い切って参加。おまけに講師は木村武仁さんということなので☆

 

 

 

ではレポート開始します(各場所は以下の地図を参照のこと)

f:id:wadakogorou-weblog:20181212142901j:plain

 

 

 

梁川星巌寓居跡

f:id:wadakogorou-weblog:20181212143845j:plain

京阪電鉄神宮丸太町駅4番口すぐそば

梁川星巌は寛政元年(1789)生まれ。彼は詩人であり志士という二つの顔を持ち、詩作の方では「日本の李白」とまで言われた人。ここに寓居を構えたのは嘉永2年9月で、「鴨沂小隠」(おうきしょういん)と称した。ここに梅田雲浜頼三樹三郎吉田松陰等が集まり、密儀が度々行われた。

ちなみに星巌は安政5年コレラに罹り70歳で没しています。奇しくも安政の大獄で捕まる5日前だったことから、当時「死に上手」と評されたようです。

 

 

 

頼山陽寓居跡

f:id:wadakogorou-weblog:20181212153705j:plain
f:id:wadakogorou-weblog:20181212153746j:plain

頼山陽がこの地に寓居を建てたのは文政11年(1828)。ちなみに「山紫水明」とは頼の造語であり、ここから見える鴨川と東山の景色に因んで。

f:id:wadakogorou-weblog:20181212153802j:plain

「山紫水明処」の由来となった景色

頼山陽と言えば『日本外史』が有名(日本外史の「外」とは体制の「外」という意味で、へりくだりを意味する)。完成したのは山紫水明処を建てる2年前の文政9年。当時の武士層のベストセラー。近藤勇も愛読者の一人で、頼山陽の書を真似て書くほどであったという。因みに当時の能筆家である西郷隆盛の号「南洲」に対し、「東洲」と署名した近藤の書が京都国立博物館にあるそうです。

 

 

 

③吉田屋跡・京都法政学校設立碑

f:id:wadakogorou-weblog:20181212161203j:plain

幕末の三本木に10件ほどあった料亭(三本木花街)のうちの一軒が吉田屋。尊王攘夷志士の密会にも使われた。木戸孝允がここで密談中、新選組に踏み込まれ、幾松の機転で難を逃れるというエピソード(踏み込まれても顔色一つ変えずに踊り続けたため、近藤勇がその肝の大きさに感心し引き上げた)が残る。慶応3年薩土盟約が締結された場所でもある。

この吉田屋の北に清輝楼という料亭があり、明治33年、西園寺公望の秘書中川小十郎がこの2階部分を間借りして京都法政学校を創立。後の立命館です。

 

 

 

④女紅場跡・舎密局

f:id:wadakogorou-weblog:20181212164819j:plain

「にょこうば」と読みます。明治5年、華族や士族の子女のために設置。英語や機織り、礼儀作法などを教えた。現在の京都府鴨沂高校の前身。

f:id:wadakogorou-weblog:20181212164838j:plain

 

 

 

⑤法雲寺

f:id:wadakogorou-weblog:20181212170455j:plain
f:id:wadakogorou-weblog:20181212170436j:plain

文久2年、長州藩久坂玄瑞長井雅楽暗殺を試み失敗し、自首して 謹慎したのがこの法雲寺です。

f:id:wadakogorou-weblog:20181212170606j:plain

本堂は当時の姿を留めており、内部には久坂謹慎の間も残っていると思われる(非公開)。

 

 

 

善導寺(島田左近遭難の地)

f:id:wadakogorou-weblog:20181212171800j:plain

島田左近は九条家の諸大夫。京都での天誅事件被害者第一号。「竜宮門のある寺の前で殺された」との記録が残っており、これがその門。

(②へ続く)