「桂小五郎と幾松が駆けた幕末京都」レポ
平成30年11月18日、京都で開催された野外講座「桂小五郎と幾松が駆けた幕末京都 ~料亭 幾松で会席料理、「幾松の間」を見学~」に参加してきました!
ではレポート開始します(各場所は以下の地図を参照のこと)
①梁川星巌寓居跡
梁川星巌は寛政元年(1789)生まれ。彼は詩人であり志士という二つの顔を持ち、詩作の方では「日本の李白」とまで言われた人。ここに寓居を構えたのは嘉永2年9月で、「鴨沂小隠」(おうきしょういん)と称した。ここに梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰等が集まり、密儀が度々行われた。
ちなみに星巌は安政5年コレラに罹り70歳で没しています。奇しくも安政の大獄で捕まる5日前だったことから、当時「死に上手」と評されたようです。
②頼山陽寓居跡
頼山陽がこの地に寓居を建てたのは文政11年(1828)。ちなみに「山紫水明」とは頼の造語であり、ここから見える鴨川と東山の景色に因んで。
頼山陽と言えば『日本外史』が有名(日本外史の「外」とは体制の「外」という意味で、へりくだりを意味する)。完成したのは山紫水明処を建てる2年前の文政9年。当時の武士層のベストセラー。近藤勇も愛読者の一人で、頼山陽の書を真似て書くほどであったという。因みに当時の能筆家である西郷隆盛の号「南洲」に対し、「東洲」と署名した近藤の書が京都国立博物館にあるそうです。
③吉田屋跡・京都法政学校設立碑
幕末の三本木に10件ほどあった料亭(三本木花街)のうちの一軒が吉田屋。尊王攘夷志士の密会にも使われた。木戸孝允がここで密談中、新選組に踏み込まれ、幾松の機転で難を逃れるというエピソード(踏み込まれても顔色一つ変えずに踊り続けたため、近藤勇がその肝の大きさに感心し引き上げた)が残る。慶応3年薩土盟約が締結された場所でもある。
この吉田屋の北に清輝楼という料亭があり、明治33年、西園寺公望の秘書中川小十郎がこの2階部分を間借りして京都法政学校を創立。後の立命館です。
④女紅場跡・舎密局跡
⑤法雲寺
文久2年、長州藩の久坂玄瑞が長井雅楽暗殺を試み失敗し、自首して 謹慎したのがこの法雲寺です。
⑥善導寺(島田左近遭難の地)
(②へ続く)